幕間(24.5話):門番が守っていたのは、幼児退行する主君だった
泥湿地の北東、重く立ち込める霧のさらに奥に、その「不可侵の聖域」は忽然と築き上げられていた。
そびえ立つのは、高さ五メートルを超える頑強な石造りの防壁。その正面に据えられた巨大な鉄枠の扉には、領主オルテシアの名において、極めて厳格で非情な「お触れ」が掲げられていた。
『魔獣特別演習場。これより魔狼たちの繊細な魔力波の測定、および精神安定のための秘密儀式を執り行う。
――魔導回路の歪みを防ぐため、狼たちを除く「男」は、何人たりとも敷地内への侵入をまかり通らず』
鉄扉のすぐ外。
漆黒のクレイ鋼の大剣を背に帯び、直立不動で門番を務めるギルベルト・クレイは、近づく者すべてを塵にせんとばかりの、鬼神のごとき殺気を全身から放っていた。
「ま、待ちたまえ、騎士様! 反射炉の補強材の件で、ハンス親方からお嬢様へ至急確認したい図面が――」
作業着に身を包んだ職人の一人が、恐る恐る近づき声をかける。
だが、その瞬間。ギルベルトの冷徹な灰色の双眸が鋭く細められ、目に見えるほどの冷たい剣圧が職人の喉元へと突き刺さった。
「下がれ、愚か者が。死にたい者から前に出ろ」
ギルベルトの声は、冬の泥濘よりも冷たく、重かった。
「あの扉の奥は、我が主が魔獣たちの野生を調伏し、完璧なる『無欠の駒』へと調律するための、神聖にして不可侵なる理の領域。男たちの野蛮な殺気、汗の臭い、そして不浄な魔力波が混ざれば、一瞬にして狼どもの感覚を狂わせ、血の惨劇を招くことになる。……用があるなら、私がここで図面を預かる。一歩でもあの門を跨ごうとする者は、我が愛刀の最初の錆にしてくれよう」
「ひ、ヒィィッ! わ、分かりました、お預けしますッ!」
職人は悲鳴を上げ、図面の羊皮紙を放り出すようにギルベルトへ手渡すと、一目散に製鉄所のほうへと逃げ帰っていった。
それを見送りながら、ギルベルトは深い敬意を込めて、堅く閉ざされた鉄門へと視線を戻した。
(……我が主、オルテシア様。己の側近であるこの私すら例外なく排除し、極限の物理精度を保とうとされるとは。なんと冷徹で、合理性に満ちたお覚悟。やはりあの御方こそ、深淵のチェス盤を支配するにふさわしい真の統治者だ……)
門の外で、影の騎士がそのような狂信的な「深読み」を限界まで滾らせて直立不動している、その瞬間。
防壁の内側――。
男たちの汗臭い熱気と煤煙から完璧に遮断された、ラベンダーとカモミールの香りが優しく漂う秘密の花園において。
オルテシアの「氷の領主」としての完璧な鉄仮面は、音を立てて木っ端微塵に砕け散っていた。
「ブランカァァァアアア!!! お利口さんにして待っていましたわねェェエエエ!!!」
お上品にドレスの裾をつまんで歩く姿はどこへやら、オルテシアはスノーホワイトに淡い青と紫のグラデーションが施された極上のルームウェア――『淡青の紫陽花ローブ』をひらひらとなびかせ、猛烈な勢いで広場へと駆け出していた。
そのローブは、ヴィオラが開発した「導電性極細糸」を織り込んだ特殊なシルクで仕立てられており、どれだけ魔獣の毛並みに擦れても静電気が一瞬で放電され、抜け毛が一本も張り付かないという、まさにこの瞬間のためだけに仕立てられた「究極のスパ戦闘服」であった。
「――ウォォン!」
霧の中から現れた、体高二メートルを超える銀魔狼の長・ブランカが、先ほどの「神聖なる調和の獣王」としての厳かさを完全に放り投げ、しっぽをちぎれんばかりにブンブンと大回転させてオルテシアへと突撃してくる。
その巨大な尾が引き起こす激しい気流が、周囲にちょっとした風の竜巻を発生させ、広場に飾られた花びらを美しく舞い散らせた。
「きゃっ、うふふ! いい子、本当に可愛い子ですわ!」
オルテシアは、ブランカの胸元に広がるプラチナ白銀の極上もふもふ毛並みへと、自身の顔を「ズボォォッ!」と豪快に埋め、その濃厚な野生の温もりとハーブの香りを肺胞の限界までスーハースーハーと吸引(狼吸い)した。
ブランカは嬉しそうにくすぐったそうに喉を鳴らし、巨大な体をドサリと芝生に横たえると、自ら無防備にその大きなお腹を上に向けて「ワシャワシャして!」とアピールし始めた。
「あああ! 世界一、いえ宇宙一お利口で尊い私の親友ですわ! 領地経営の激務も、ギルベルトの重すぎる狂信も、高利貸しの吸血鬼との化かし合いも、この極上の弾力と体温の前にすべて跡形もなく融解していきますわぁ……!」
オルテシアは両手を全力で動かし、ブランカの耳の後ろや、柔らかいお腹の毛並みを激しく愛で倒した。
少し離れた芝生の上では、普段は「鉄と計算」の権化であるはずの仏頂面令嬢ヴィオラもまた、一回り小柄な魔狼の背中にすっぽりと抱きつき、そのぬくもりに目をトロンとさせていた。
「……信じられない復元性。熱力学的にも、この三十八度の有機的な発熱毛布は、人間の脳神経を最速で弛緩させる極めて合理的なリラクゼーションです……。はぁ、数式が頭の奥で美しく整列していきますわ……」
普段の冷淡な無表情はどこへやら、ヴィオラも魔狼の首元に頬をすりすりしながら、完全に骨抜きにされていた。
さらに、周囲では他の魔狼たちが、「ブランカお姉ちゃんだけずるい、ボクたちもナデナデして……」とばかりに、お耳をヘニャリと寝かせ、巨大な「濡れた毛布」のようになって順番をショボショボと待っている。
その尊すぎるもふもふの行列に、オルテシア様の脳内は完全に煮え立っていた。
(おーほほほほ! 天国! ここは天国ですわ! もうクレイ家の全財産を注ぎ込んで、王都中の最高級の骨付き肉を買い占め、この子たちの足元へピラミッドのように貢ぎ奉りたくなりますわ……っ!)
そんな限界推し活脳を大爆発させ、お上品な淑女らしからぬ奇声を上げながら、オルテシアはブランカの肉球をぎゅっと握りしめて恍惚の時間を過ごしていた。
*
やがて、もふもふデトックスで魂を完全に浄化させたオルテシアとヴィオラは、敷地内に併設された、ヴィオラ設計による一寸の狂いもない平坦な「円形舗装トラック」の特等席に腰掛けていた。
オルテシアが優雅にハーブティーを口に運ぶなか、目の前では、クレイ鋼の「無欠の爪」を装着したブランカを先頭に、数頭の魔狼たちが野生の力を120%解放して爆走していた。
――ビュォォォッ!!!
冬の冷たい大気を引き裂き、時速百キロメートルを超える銀の流星たちが、大地を心地よく揺らしながら目の前を駆け抜けていく。
その圧倒的な躍動感と、白銀の毛並みが風になびく息を呑むほどの美しさを見つめていたオルテシアの瞳に、ふと、冷徹な「前世の敏腕経営者」としての鋭い輝きが宿った。
「ヴィオラ、素晴らしい走りですわね。……私、お上品で、最高に合理的な大野望を閃いてしまいましたわ」
「……大野望、ですか。オルテシア様」
魔狼の背中から離れ、ようやくいつものポーカーフェイスに戻ったヴィオラが、眼鏡の位置を正しながら尋ねる。
「ええ。将来的にこのクレイ領がさらに発展し、王都の貴族や、他領の裕福な諸侯、さらには大商人たちを大勢招き入れる段階になった時……。この一寸の狂いもない美しい舗装トラックに、豪華な観客席を普請するのです。そして、この最強のクレイ鋼をまとった美しい魔狼たちが激突する、お上品な娯楽――『公営魔狼レース(クレイ杯)』を興行いたしますのよ」
オルテシアは、紫陽花色のローブの袖を揺らし、不敵に微笑んだ。
「入場料、貴賓席の利用料、最高級の飲食、そして何より『どちらの魔狼が勝つか』を予想させる投票(賭け金)の仕組み……。競馬などという古い遊戯を遥かに凌駕する、世界で唯一無二の、圧倒的な知的エンターテインメント産業。……ふふ、これだけで、私たちのチェス盤(領地)に、天文学的なゴールドが自動的に転がり込んでくる永久機関が完成するとは思いませんこと?」
ヴィオラは一瞬だけ目を丸くしたが、即座に懐から数式ノートを取り出し、木炭の鉛筆を滑らせ始めた。
「……確率論、および統計学的に見ても、極めて理にかなった賭けの仕組みですわ。魔狼たちの血統、日々の食事量、体調の数値を帳面にまとめて公開すれば、客は勝手に『不整合の計算』に没頭し、金を注ぎ込む。……素晴らしい。まさに、最果ての地に眠る、最大の経済の調律ですわね、オルテシア様」
「おーほほほ! 聞き分けが良くて助かりますわ、ヴィオラ。ええ、この魔狼楽園は、ただの私たちの癒やしではなく、将来のクレイ帝国を潤す、最強の『金のなる木』の苗床でもあるのですわ!」
二人の高貴な女性は、もふもふの温もりに包まれながら、最果ての地を黄金に染め上げる、冷徹かつお上品なビジネスプランに声を弾ませていた。
*
その日の夕暮れ。
特別測定がすべて終了し、防壁の巨大な鉄扉ががちりと開かれた。
門から出てきたオルテシアは、乱れたお髪をすでにお上品に整え、元の「氷の領主」としての完璧な絶対零度の仮面を被り直していた。
「測定は完璧に完了いたしましたわ、ギルベルト。……よく守ってくれましたね」
鉄扉の外で、一歩も動かずに立ち続けていたギルベルトは、深く、深く片膝を突き、その漆黒のクレイ鋼の大剣の柄に手を当てて、恍惚とした瞳で主を仰ぎ見た。
「はっ……! 我が主、オルテシア様。扉の奥からかすかに、魔獣たちを屈服させ、その喉を鳴らさせている峻厳なる覇王の咆哮(お言葉)が響いておりました。……あの猛獣どもが、お嬢様の理の前に完全に骨抜きにされ、ひれ伏しているのが手に取るように分かります。なんと恐るべき、魔境の王を従えるにふさわしい、気高き統治者の威光でしょうか……!」
「え、ええ。ええ……。まあ、大体そのような感じですわ。……ふふ」
実際は、ブランカの肉球をぎゅっと包み込みながら「可愛いねぇ、世界一お利口ですわねぇ!」と赤ちゃん言葉で幼児退行していただけであるとは、口が裂けても言えぬまま、オルテシアはただ優雅に指先で自身の顎を支え、不敵に微笑んでみせた。
その隣で、ヴィオラは表情をひとつも崩さぬまま、静かに「こほん」と一回だけ、小さく咳払いをした。
オルテシアは「スン……」と表情をさらに凍りつかせ、ギルベルトへ冷酷に言い放った。
「次のチェスの手番に備えますわよ。……ついて来なさい、ギルベルト」
「御心のままに、我が主よ!」
影の騎士は、扉の奥で行われていたもふもふのスパ天国の実態を1ミリも知らぬまま、その狂信をさらに底知れぬ深淵へと加速させ、主の背中を、ゾクゾクとする歓喜のなかで追従していくのだった。




