第022話:威厳を保ちながら、心臓は握り潰されていた
その光景は、最果ての泥濘にそびえ立つ製鉄所の内で、厳かなる儀式のように執り行われていた。
「動かないでください、ギルベルト。筋肉の微細な収縮が、計算の重心をコンマ一ミリ狂わせますわ」
ヴィオラ・ライブラは、巨大な真鍮製のカリパス(測定器)を手に、氷のような無表情でギルベルト・クレイの身体を「測定」していた。
半裸となったギルベルトの上半身は、磨き抜かれた黒曜石の彫像のように冷徹な筋肉美を誇っている。ヴィオラはその強靭な肩幅、肘の関節の可動角、手首の旋回半径、精度、そして踏み込んだ際の重心の移動距離にいたるまで、完璧な数値として羊皮紙の束に書き留めていく。
「クレイ鋼による大剣は、従来の炭素鋼に比べて密度が極めて均一であり、かつ応力に対する強度が桁違いです。つまり、あなたの骨格と筋力に『寸分の狂いもなく適合させた重心』で鍛え上げれば、それは肉体の一部として機能する絶対の物理武装となりますわ」
「任せる、ヴィオラ。我が主の盤面を切り開くためなら、私の骨の一本、肉の一片まで、お前の数式の通りに解剖するがいい」
ギルベルトは冷たい灰色の双眸を細め、その妖艶な顔立ちに、狂信的なまでの恍惚と覚悟をたたえて囁いた。
ヴィオラは彼の熱すぎる視線をミリ単位の事務処理として受け流すと、今度は背後に控える「もう一頭の騎士」へと向き直った。
「次はブランカ、あなたの番ですわ。……そこへお座りなさい」
その瞬間、周囲で見守っていた「金槌と炎(鉄ギルド)」の鍛冶師たちが、ヒッと短い悲鳴を上げて一歩下がった。
霧の中から悠然と進み出たのは、体高二メートルを超える、魔境の支配者たる嵐魔狼の長――ブランカであった。
だが、職人たちの恐怖を嘲笑うかのように、ブランカはまるでお上品な名家の飼い犬のように、その巨大な体躯をしなやかに折り曲げ、ヴィオラの前で「ちょこん」とお行儀よくお座りをした。さらに、ヴィオラが手を差し出すと、自ら大きな前脚を「スッ」と差し出して見せたのだ。
「いい子ですわね」
ヴィオラは温めた蜜蝋をたっぷりと含んだ粘土を手に取り、ブランカの強靭な前脚の爪、そして鋭く尖った牙の一本一本にあてがい、極めて精密な「型取り」を開始した。
ザリ、ザリ、と蜜蝋が爪に押し当てられるたび、ブランカは少し「くすぐったそうに」白銀の耳をピクピクと震わせる。その黄金の双眸は、少し離れた特等席からこの光景を静観している、愛しい主――オルテシアへと、じっと熱い視線を向け続けていた。
そのオルテシアは、純白のドレスに身を包み、肘掛け椅子に深く腰掛けたまま、完璧な「至高の統治者」としての冷徹な美貌をたたえて沈黙していた。
――だが、その絶対零度の仮面の裏側で、彼女の脳内は、尊さのあまり肺胞が破裂しかねないほどの大暴走を起こしていた。
(お、お、おーほほほほ!!! 何ですかあの大変にお利口さんに「お手」の姿勢をしたまま、お耳をヘニャリと寝かせて石膏の型取りを健気に待っている可愛い生き物は……っ!!!
ブランカ、あなたはどうしてそれほど世界一賢くて可愛らしいのですか!?
蜜蝋が肉球の隙間に挟まって、ちょっと足元をモジモジさせているその仕草、尊さの過剰摂取で私の心臓が物理的に握り潰されそうですわ!
今すぐその大きな前脚を私の両手でぎゅっと包み込んで、お腹を上に向けてワシャワシャに撫で回し、その濡れた冷たいお鼻に私の頬をすりすりしたい……!
他の魔狼たちも『ボクたちはお留守番なの……?』と言いたげに、お耳を垂らしてショボショボと順番を待っているのが愛おしすぎますわ!!!
静かにしなさい、私の心臓! ここで私が狂喜乱舞してブランカの肉球に飛びつけば、私の領主としての威厳が文字通り最果ての湿地に沈んでしまいますわ。冷徹に、どこまでも氷のように冷徹になりなさい、オルテシア……っ!)
脳内がもふもふの洪水で決壊しかけているなどとは露ほども思わせず、オルテシアはただ優雅に指先で自身の顎を支え、退屈そうに睫毛を伏せて見せた。
その沈黙を、これ以上ないほど重厚な空気として現場に張り詰めさせたまま、ヴィオラの精密な型取りが完了した。
「測定、および形状の複写は完璧ですわ。……これより、型紙(設計図)の最終調整に入ります」
ヴィオラが作業台の上に広げたのは、ミクロの狂いもない大剣の三面図、そしてブランカの爪と牙にミリ単位で適合する「流線型装甲爪牙」の設計図であった。
それは、中世のどの職人も見たことのない、極限の機能美を誇る近代的な「図面」だった。
作業台の傍らに立ち、その図面を凝視していた老鍛冶師バルト・クロイツの目が、ハッと見開かれた。
「……おい、お嬢ちゃん。この爪の装甲、ただ被せるだけじゃねえな」
バルトは太い指先で図面の一角を指差した。
「ええ。ブランカの爪の物理的な湾曲率と、獲物を引き裂く際の運動エネルギーを逆算し、最も効率よく力を伝える形状に設計しています」
「いや、それだけじゃねえ。この根元の部分……ここをあとコンマ数ミリ削って、少しだけ『遊び』を作れ。そして、この隙間に緩衝用の薄い板ばねを噛ませるんだ」
バルトは、長年鉄を叩き続けてきた職人としての勘を滾らせ、熱っぽく語り出した。
「魔狼の爪ってのは生身の骨と肉に繋がってやがる。これだけ硬い『クレイ鋼』の刃を完璧に固定しちまったら、獲物の硬い骨に叩きつけた時、その衝撃が逃げ場を失って、ブランカの爪の根元の肉をズタズタに引き裂いちまう。ここにわずかなクッション(遊び)を挟むことで、衝撃を外へ逃がすんだよ」
ヴィオラは、その言葉に一瞬だけ目を丸くした。
「……応力の集中を緩和し、生体への反動を逃がす、極めて理にかなった機構ですわね。古い職人の経験則のなかに、これほど論理的な解が眠っていようとは」
「へっ、職人を舐めんじゃねえよ。俺たちは何万回と鉄を叩いて、骨を砕く武器を作ってきたんだ」
バルトは不敵に笑い、その煤けた顔に、かつて王都のギルドでつまらない既製品を量産させられていた時には失われていた、職人としての誇りと熱い魂の輝きを取り戻していた。
「素晴らしいですわ。あなたのその『現場の知恵』、ただちに数式へと組み込み、図面を調律いたします」
ヴィオラは即座に木炭の鉛筆を滑らせ、設計図の数値を美しく再編していく。
科学の数式と、伝統の知恵。
本来交わるはずのなかった二つの理が、今、完璧な一つの歯車となって噛み合っていく。
そして、その「無欠の設計図」が完成した瞬間、製鉄所内の空気が一気に沸騰した。
「野郎ども、極秘反射炉にクレイ鋼のインゴットをぶち込めッ! 火を最大まで滾らせろ!」
バルトの怒号のような指示が飛ぶ。
再び極秘反射炉に最初の黄金たる鋼が投入され、白銀の魔狼たちが駆動する回し車ふいごが、地の底を揺らすような地鳴りとともに超高圧の風を送り込む。
炉の覗き窓から漏れ出すのは、これまでに見たこともないほど不純物がなく、まるで太陽の欠片を溶かしたかのように澄んだ、眩いばかりの黄金色の熱光であった。
バルトは極厚の革前掛けをがちりと締め、自身の胴体ほどもある巨大な金槌を、両手で固く握りしめた。
熱風にその白髪を激しくなびかせながら、老鍛冶師は燃え盛るような目で、熱せられたクレイ鋼の塊を睨み据える。
「よし、野郎ども……! 俺たちクレイの職人の、魂のすべてを――この『無欠の鉄』に叩き込むぞォオオッ!!!」
轟音とともに、バルトの金槌が、真っ赤に熱された黄金の鋼へと振り下ろされた。
――ガツンッ!!!
湿地の冷たい大気を震わせて響き渡る、あまりにも重厚で、かつてないほど清澄な金属音。
吹き荒れる熱気のなか、飛び散る火花は、これまでの不純だらけの鉄とは違い、まるで白銀の星屑のように美しく、白く鋭い光を放って四方に弾け飛んだ。
その熱き火花の雨の向こう。
オルテシアはただ静かに立ち上がり、その冷たい灰色の双眸で、赤く染まる新世界が築き上げられていく様を、優雅に見つめていた。




