第020話:「深淵の支配者」の正体は、もふもふ狂だった
冷たい霧を割って流れてきたのは、地の底を揺らすような、深く重厚な獣たちの息遣いだった。
職人たちが恐怖に身をすくませるなか、ゆっくりと霧を切り裂いて姿を現したのは、白銀の毛並みを冬の淡光に濡らした、体高二メートルを超える嵐魔狼の一群であった。
冬の低い陽光がその濡れた体躯に射し込むと、一筋一筋の白銀が磨き抜かれた白金の糸のように眩く、荘厳な光彩を放って輝く。
その一挙手一投足に漲る絶対的な強者の風格、圧倒的な破壊力を予感させる恐るべき質量でありながら、ただそこに佇むだけで見る者の魂を奪う、神聖なまでの美しさ。最果ての魔境に君臨する王としての堂々たるその佇まいに、職人たちは畏怖に震えながらも、その神話的な美しさに一瞬、視線を釘付けにされていた。
「ひ、人食い魔狼だァァァッ!!」
「武器を持て! 食い殺されるぞ!」
職人たちが大パニックに陥り、シャベルを構えて逃げ惑う。
だが、嵐魔狼の群れを率いる白銀の長――ブランカは、威嚇の咆哮をあげることもなく、ただ静かに、オルテシアの足元へと歩み寄った。
ブランカは、オルテシアの純白のドレスを汚さぬよう注意深く泥を避け、その大きな頭を彼女の膝元へ「コツン」と預け、お行儀よくお座りをしたのだ。
「いい子ですわね、ブランカ」
オルテシアは完璧な美しさと、氷のような絶対の沈黙を湛えた顔で、ブランカの頭をやさしく撫でた。
「ブランカ、そして誇り高きクレイの牙たち。……お仕事の時間ですわ」
オルテシアが静かに指示を出すと、ヴィオラとギルベルトが、ライブラ家伝来の頑強な鍛鉄で補強された巨大な「運搬用特製ハーネス」を運び込んだ。
魔獣たちは暴れることもなく、自らその長い鼻先をハーネスの輪へと滑り込ませ、がちりとロックされた。
それから始まったのは、人間の常識を粉々に粉砕する、静寂の物理作業であった。
人間が三十人がかりでも動かせない巨石が、魔狼たちの強靭な四肢の筋肉が駆動するたび、「ハッ、ハッ」という規則正しい呼気とともに、泥の上を滑るように爆速で運ばれていく。
さらに驚くべきは、掘削エリアでの作業であった。
魔狼たちは、嵐を呼ぶ風魔法(定型の術式)を一切使わなかった。あれは破壊と切断を目的とした融通の利かない戦闘用の術式であり、精密な土木作業に用いれば現場をズタズタに吹き飛ばすキルゾーンに変えてしまうことを、オルテシアもヴィオラも熟知していたからだ。
代わりに、彼らはその巨大な、鋼よりも硬く鋭い「物理の爪」を用いた。
ザシュ、ザシュ、ザシュ――。
凄まじいまでの脚力と爪の摩擦。掘削エリアに並んだ狼たちは、寸分の狂いもなく、ヴィオラが地面に引いた測量線の通りに、まるで精密な重機のように、正確な深さと幅で泥土を静かに、美しく掘り下げていく。
風を巻き起こすこともなく、ただ静かに、信じられないほどの規律と速度で、土木工事をアシストしていく白銀の群れ。
ハンスをはじめとする石工たちは、完全に言葉を失い、恐怖を通り越した圧倒的な「驚嘆」のなかで、ただその光景を凝視していた。
彼らは、魔法の暴力ではなく、「あの凶暴な野生の超存在が、人間以上の規律と精密さで、完璧に『誇り高き盟友』として呼吸を合わせ、新時代のインフラを組み立てている異様さ」に、魂を完膚なきまでに叩き潰されていた。
一方、その光景を、冷たい灰色の双眸で静かに見据えていたオルテシア。
その純白のドレスと、冷徹極まりない「領主の風格」の裏側で――彼女の脳内は、完全に許容量を超えた、大爆発を起こしていた。
(ああ、ああ、ああ……! 今、私の脳内で中〇みゆき様のあの重厚なストリングスと、地上の星々や風の中のすばるを力強く歌い上げる大音量のハスキーボイスが、N〇Kの伝説的ドキュメンタリー番組『プロジェクト〇』ばりの特等席でフル再生されておりますわ!!!
泥にまみれて最果てのインフラ構築に挑む、誇り高き煤まみれの挑戦者たち……!!)
オルテシアは、内心で狂おしいほどの興奮と悶絶に打ち震えていた。
(何ですかあの大変に見事な白銀の毛並みを泥に少しだけ汚しながら、逞しい背中の筋肉を美しく躍動させて巨石を運ぶもふもふたちの勇姿は! ハッハッ、と濡れた息を吐きながら、お耳をピンと立てて健気にお手て(爪)をザクザクと動かすその可愛い前脚を、今すぐ両手で包み込んで『えらいですわね、本当に世界一えらいですわね!』とワシャワシャに撫で回し、その濡れた鼻先に私の頬をすりすりしたい……っ!
ブランカが頑張って巨石を引ききった拍子に、嬉しそうにしっぽをブンブンとちぎれんばかりに振り回すのを見るだけで、私の胸は尊さの過剰摂取で破裂してしまいそうですわ!
筋肉は、決して裏切りませんのよ。ええ、ただの、鮭の切り身だけで二十四時間稼働する、世界一美しくて忠実な物理エンジンですわ。ああ、早くこの基礎工事を完璧に終わらせて、彼らのお腹を上に向けてワシャワシャ甘えさせなさい!!!)
脳内でこれほど取り乱し、尊さのあまり呼吸困難になりかけているというのに、オルテシアの表面上の仮面は、1ミリたりとも揺らがなかった。
ただ、その冷たく冴え渡った瞳が、沈黙とともに現場を射抜いている。
傍らに佇むギルベルトは、その「絶対の静寂」に、深く、深く魂を震わせていた。
(……おお。泥に汚れた職人も、魔境の魔獣も、そして超科学のすべてを掌握し、ただ静かに、冷徹に完成の瞬間を睨み据える、我が主の、至高の統治者の沈黙よ。不安定な『奇跡』を排し、純粋な物理と規律だけで、世界のルールを書き換えていく……。やはりこのお方は、深淵の支配者なのだ)
ギルベルトの狂信のギアが、また一段、音を立てて跳ね上がっていた。
そして――魔狼たちの「人間以上の精密な土木アシスト」と、ヴィオラの「地盤改良」という圧倒的な新技術を目の当たりにした、職人たちの胸の奥で。
長い間、ギルドのつまらない既製品量産や重税に縛られ、腐りかけていた「職人の矜持」が、凄まじい勢いで息を吹き返そうとしていた。
「……おい、お前ら」
バルト・クロイツが、太い腕のタコを噛み締め、ギラギラとした目をハンスたち石工へと向けた。
「このまま、あの狼どもや小娘に、俺たちの仕事を全部持っていかれてドヤ顔されたままでいいのかよ? あいつらがこれだけ完璧な基礎を掘り上げてくれたんだ。……これ以上の極上の土台はねえ」
ハンスも、泥を拭って立ち上がり、その目はかつてない職人の輝きを取り戻していた。
「……ああ。ここで俺たちが一寸の狂いもない、世界一完璧なレンガを積まなきゃ、石工の名が廃る。バルトさん、あんたも、俺たちが積んだ炉のガワに、世界一完璧なふいごの歯車を噛み合わせてくれよ!」
「けっ、言われなくてもそのつもりだ。耐火レンガの炉の骨組みも、回し車の木製歯車も、一寸の狂いもなく仕上げてやるよ」
バルトは不敵に鼻で笑い、腕を組んでそびえ立つ基礎を見上げた。
「……だがな、ハンス。俺たち『金槌と炎』の本当の仕事は、炉を建てることじゃねえ。『鉄を焼く』ことだ。ガワはプロの意地として完璧に組んでやる。だが、あんな間接加熱の珍妙なドームの中で、本当にまともな鉄が溶けるかどうかは……別問題だからな」
「やってみりゃあ分かることだろ! 野郎ども、モタモタすんじゃねえ!」
ハンスが職人たちを振り返り、地鳴りのような咆哮を上げた。
「狼どもの運搬スピードに負けずに、一寸の狂いもなく耐火レンガを積み上げろ! 回し車ふいごの設計図通りに、完璧な木製歯車を切り出せ!」
「「――おおおおおッ!!!」」
彼らの目は、手抜きのサボタージュを企てていた時の死んだ目ではない。「俺たちの手で、この新時代の奇跡をこの手で築き上げてやる!」という、眠っていたプロフェッショナルの矜持に火がついた、熱く狂おしい挑戦者たちの目であった。
響き渡るハンマーの音。人間と、魔獣の強靭な筋肉、そしてヴィオラの超科学。
それらが完璧な歯車となって噛み合い、寒風が吹きすさぶクレイ領の湿地において、巨大な、そしておぞましいほどに美しいドーム型の『極秘反射炉』と『大型木製回し車ふいご』が、爆速でその強固な輪郭を現していく。
その建設現場の熱気のなか、オルテシアは優雅に微笑み、その冷たい灰色の瞳で、新世界が築かれていく様をただ見つめていた。




