第019話:職人たちを黙らせたのは、ただの灰と粘土だった
クレイ領の冬は、泥濘とともにあった。
領地を覆う底なしの泥湿地は、踏み入る者の足を無慈悲に奪い、重い冷気を含んだ湿泥となってあらゆる作業を阻む。
中央広場から建設予定地へと駆り出された「金槌と炎(鉄ギルド)」や「定規と槌(石ギルド)」の職人たちは、膝まで泥に浸かりながら、投げやりな手つきでシャベルを泥土に突き立てていた。
「けっ、まともな足場もねえ。こんなじくじくした柔らかい泥地の上に、数千、数万の耐火レンガを積み上げる巨大な炉を建てるだと?」
石工頭のハンス・グレーバーは、長靴の底から不快な音を立てて泥を引き抜き、吐き捨てるように言った。
「建物の基礎ってのは、強固な岩盤か、せめて乾いた土の上に据えるもんだ。お嬢様のお上品なお遊びに付き合って、こんな底なし沼にレンガを積み上げてみろ。一晩で地盤沈下を起こして傾き、最後は自重で瓦礫の山に崩壊するのがオチだ」
周囲の石工たちも、泥だらけの腕を組んでハンスに同調した。
「ああ。怪我をしねえ程度に適当にレンガを並べて、炉がひっくり返った段階で『やっぱりダメでしたね』って言って、倍の違約金をもらって帰ろうぜ」
「最果ての地獄の泥沼で、これ以上泥遊びをさせられてたまるかってんだ」
作業は遅滞し、現場には冷ややかなサボタージュの空気が立ち込めていた。
職人たちは、自分たちが「無力なお嬢様の無理難題」に付き合ってやっているという優越感を盾に、わざとちんたらと手を動かしていたのだ。
「――皆様、そこまでですわ」
ぬかるんだ粘土層の向こうから、凛とした、だが静かな声が響いた。
ヴィオラ・ライブラ。
彼女は巨大な測量計と、完璧な数式がびっしりと書き込まれた羊皮紙の束を胸に抱え、泥濘用の頑強な革靴を履いて、一歩一歩、正確な足取りでハンスたちの前へと進み出た。
その眼鏡の奥の知的で鋭い瞳が、職人たちの手抜き工事を冷徹に見透かしている。
「ハンス・グレーバー。あなたの石工としての知識は、千年前の古文書で更新を止めているのではないかしら? ……それとも、ただ泥の水分量と支持力の関係すら計算できない、怠惰な無能の言い訳かしら」
「なんだと、このお勉強だけの小娘が……!」
ハンスが顔を真っ赤にしてシャベルを握りしめる。
ヴィオラはハンスの怒りを受け流し、手元の図面をパサリと開いて見せた。
「シルト領から取り寄せさせた含鉄珪石粘土。そして、ショア湊の大浚渫で引き上げた泥砂。これらに、現地で焼いた粗製石灰を『三対二対一』の比率で調合し、この泥濘へ一律に叩き込みなさい」
「ふん、泥に泥と灰を混ぜてどうする。余計にぬかるむだけだ!」
「いいから、やりなさい。……それとも、領主様の命令を無視して、月給一クラウンの契約を即時破棄されたいのかしら?」
冷酷な「手当のカット」を突きつけられ、石工たちは舌打ちをしながらも、嫌々ながら調合された配合土を泥沼へと投入し、シャベルでこね始めた。
その直後、奇跡は物理法則の顔をして現れた。
「……あ、あれ? なんだこれ、シャベルが急に重く……」
一人の石工が、目を見開いて声を上げた。
じくじくと水を噴き出していた湿地が、灰を混ぜた瞬間から不気味な熱を帯び、急速に水分を失い始めたのだ。珪石粘土の成分と石灰が化学反応を起こし、泥を固着させ、まるで粘土質の巨大な人造岩盤のように、急速に凝固していく。
「バカな……! 泥が、これほど硬く締まるだと!?」
ハンスは思わず跪き、凝固し始めた地面を素手で殴りつけた。
びくともしない。ハンマーで叩いても砕けないほどの、強固な「人工の地盤」が、湿地の上に平然と現れていた。
石工の伝統技術では考えられない、近代的な土質工学による地盤改良。ハンスは、己の頭を縛り付けていた古い常識の鎖が、音を立てて引きちぎられるのを感じていた。
「基礎の強度はこれで担保されましたわ」
ヴィオラは、眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、冷ややかに告げた。
「ですが、ここからが本番です。炉の燃焼ドームを築くための巨石の運搬、そして大型送風機を据えるための、深さ二メートルの精密な地盤掘削。……これを、日の暮れるまでに完了させなさい」
「おいおい、冗談だろ!」
ハンスが青ざめて叫んだ。
「この強度になった地盤を、日の暮れるまでに人力で掘削し、あの四百五十キロは超える巨石群を運び込めってのか!? 人間が百人いたって、丸三日はかかる重労働だ!」
「あら、人間の筋肉だけに頼るなんて、いつ言いましたかしら?」
その静かな声とともに、背後の深い霧の奥から、肺腑を震わせる重厚な無数の息遣いが、白く冷たい蒸気となって漂い始めた。霧の向こうに潜む、ただならぬ獣王たちの堂々たる威容を予感させる圧倒的な気配に、職人たちは息を呑む。




