その3 ここ数年、大流行りのジャンルらしいですね
夏休みに起きがちなこと
中学生・高校生ぐらいの時って、くだらないことで――と言っては、今悩んでいる若い人に対して残虐でしょうか――死にたくなったり殺したくなったり。
それがままあることと申しますか、無きにしも非ずかと思うのです。
「そんだけ隠せりゃ上出来だっぺ」
夏休み、祖父の家でかけられた言葉です。
毎朝のルーティン、薪で大釜の湯を沸かすその背中越しでした。
「10年もすりゃあ出られるっけえ、じいちゃんと農業やるか」
「決めたらすぐ、だったのかなあ。みんなの顔を見ておこうなんて思った時点で」
中学生なんてアタマおかしいものと決まっていますが、この時期の私も御多分に漏れずどうかしていたと、まあそういうことで。
「やめるだか? ま、仕返しだぁ何だぁ、後始末も面倒だっぺ」
それからです、祖父が戦争体験を話してくれるようになったのは。
それまでの私は「ともに語るに足らざるの豎子」だったのでしょう。
……かっこつけすぎですね。
と、そうしたわけで。
聞き苦しきこと限りなきおっさんの自分語りはここまでとしまして。
問題は、戦争体験者それも特に「兵隊帰り」と言われる人々の死生観です。
死ぬの殺すのが、日常の延長線上にあるように思えてなりません。
これは存命の祖母についても同じで、「人は死ぬもんだ」という意識がある。仲の良かった老人友達などが亡くなってもケロっとしている。
いや、当たり前っちゃあ当たり前なんですよ。
「人はいつか死ぬ」。
ただそれが、簡単に浮かび上がってくる。
日常の風景として心象に存在している。
「人は死ぬもの」であり「人は人を殺すもの」。
人が人を殺すということについて、善悪は別論として、「ままありうることだ」という意識が当たり前に存在している。
「人が人を殺したらどうなる?」の問いに対して最初に出てくる発想が、「仕返し」なんですよ。被害者側も人であり、であれば「人を殺そうとするのは、ごく普通の反応だ」という意識。
もちろん祖父にせよ祖母にせよ(私にせよ)、行為には及んでいません。
なんなら「殺生はおいねぇ(いけない)」と、人並みに仏教的でもある。
よその人に問われでもしたら、「殺人は犯罪だわで、良いわけねえっぺ」と言い放つに決まっています。
ただ遠慮のない身内からすれば、「死ぬの殺すのって、そんなに大ごとってものでもなかろう」という意識が明らかに見て取れる。
これをどう考えたらよいのか、私にはいまだにわかりかねるところがあります。
そして若い方であればあるほど――戦争から年代が離れた方であればあるほど――温厚な老人が時おり見せる殺伐いえ索漠に、「兵隊帰り」「戦争体験者」の感覚に、触れる機会は少なくなりつつあるでしょうから、いちおう書いておこうかと。
もちろん全ての戦争経験者が、と言うつもりはありません。
狭い世界の、小さな母数の話です。
それでも、これまたひとつの事実ではあると。
そういうことで書きました。
NTRれた若いあなたへ
彼氏彼女を一度は作れた実績持ちのあなたです、またすぐできます。
ものごとは大概お互いさまでもありますし(粗雑な恋愛観)。
だから暴れなくてもだいじょうぶ。傷は癒えます。
「殺人はやばいっしょ」、まったくもって正しいです。
「だけどボコしてスマホぐらいなら」、それは間違いです。10年モノです




