幼馴染の内心
「――あ、もしもし優くん? 今日ね、萌の家、お父さんまた出張なんだ。……ううん、大丈夫、一人で平気だよ。早苗さんに怒られちゃうもんね。萌、いい子にして待ってるから。……うん、また後でね」
スマートフォンの通話終了ボタンをタップした瞬間、栗原萌の顔から「可哀想な幼馴染」という名の仮面が剥がれ落ちた。
彼女は、早苗が神経質に磨き上げているはずの佐藤家の隣、自分の部屋の天蓋付きベッドに大の字で寝転がった。天井を見上げ、ふふっ、と湿った笑い声を漏らす。その瞳には、先ほどまでの震えるような声の主と同一人物とは思えないほど、冷酷で乾いた愉悦が宿っていた。
優太は、本当に扱いやすい「玩具」だ。
「萌には俺がいないとダメだ」「早苗に冷遇されている萌を救えるのは俺だけだ」というヒーロー願望を適度に刺激してやれば、彼は勝手に陶酔し、職場を抜け出してまで萌の元へ飛んでくる。彼が萌の肌を貪り、愛を囁いているとき、彼は萌という個人を愛しているのではない。
早苗という、一分の隙もない「正論の塊」から逃げ出し、自分を無条件で全肯定してくれる、泥濘のような甘い全能感に浸っているだけなのだ。
「お姉さん、今頃一生懸命、数字と格闘してるのかな……」
萌は、自分の細く、白い指先をうっとりと眺める。
彼女にとって、優太は「人生を共にする男」ではない。そんなものは、どこにでも転がっている。
ただ、あの完璧で、高潔で、凛とした銀行員の早苗が、この泥沼に引きずり込まれ、一歩ずつ理性を失い、プライドをズタズタに引き裂かれていく様。その「崩壊のプロセス」を見ることこそが、萌にとって何物にも代えがたい極上の娯楽だった。
一週間前、早苗が髪を切り、割れた眼鏡を踏みつけ、包丁を手にしかけたあの夜。
萌はこれ以上ないほどの恐怖に震えて見せたが、内心では絶頂に近い興奮を覚えていた。
(壊れた。あの、鉄の女が! 私のせいであんなに醜く壊れた!)
だが、翌日から早苗が再び「完璧な妻」として振る舞い始めたのは、萌にとっては嬉しい誤算だった。
あの女は、まだ諦めていないのだ。自分の家庭を、夫を、そして「幼馴染としての絆」を、まだ必死に信じようとしている。泥の中に首まで浸かっていながら、自分はまだ綺麗な場所にいると信じ込もうとしている、その浅ましさ。
「……しぶといなぁ、お姉さんは。そこまで信じてるなら、もっと『希望』をあげなきゃね」
萌は起き上がり、ドレッサーに向かった。鏡の中の自分は、どこから見ても守ってあげたくなるような、無垢で純真な少女の瞳をしている。
彼女は、クローゼットの奥から一着のワイシャツを取り出した。優太が以前、この家に「わざと忘れていった」ことにしているシャツだ。早苗が彼の誕生日に、給料の何割かを注ぎ込んで選んだであろう、上質な仕立てのもの。
萌は、そのシャツの襟元に、わざと目立つように自分の口紅を薄く擦り付けた。それも、べったりとではなく、不意に触れてしまったかのような「事故」を装った不自然な跡。さらに、自室で焚いている甘ったるい香水の匂いを、生地の深くまで染み込ませる。
早苗が、優太の嘘に気づくか、あるいは「まだ信じられる」と自分に言い聞かせて見逃すか。
その葛藤こそが、早苗の心を内側から食い破る寄生虫になる。萌は、その虫が早苗の脳を侵食し、彼女が完全に自我を失うのを、特等席で眺めていたいのだ。
午後三時。予定通り、銀行の営業車を走らせた優太が萌の家へやってきた。
「外回りの合間のトラブル対応だ」という、早苗には到底通用しないであろう、けれど優太が自分を納得させるための稚拙な言い訳。萌はそれを、聖母のような慈愛に満ちた笑顔で迎え入れた。
「優くん、お疲れ様。……今日は、早苗さんになんて言ってきたの? 萌のために、また無理させちゃったかな?」
「……いや、いいんだ。あいつ、最近は余計なことを言わないからな。仕事に没頭してくれてる方が、俺も自由に動けるし、家の空気もマシなんだよ」
優太は、萌の細い腰に手を回し、吸い込まれるようにリビングのソファへ向かう。
萌は彼の胸に顔を埋め、あどけない声を装って囁いた。
「ねえ、優くん。萌ね、早苗さんのこと、本当はお姉さんみたいに尊敬してるんだよ。だから、萌がこうして優くんの疲れを取ってあげれば、早苗さんの負担も減るでしょ? ……萌、お姉さんのためにも、いいことしてるよね?」
「……ああ。萌は本当に、世界一優しい子だよ。あいつの冷たさを、お前が全部埋めてくれる」
優太は、萌の底知れない邪悪な意図に全く気づかず、その甘い猛毒を栄養剤のように飲み込み、彼女を抱きしめる。
やがて、重なり合う肉体の熱気がリビングを支配し始めた。
萌は、わざとらしく、隣の佐藤家にまで届くのではないかというほど大きな声を上げた。壁一枚隔てたあちら側で、もし早苗が早退して帰宅していたら……。自分の夫が隣の家で、どんな声を上げ、どんな表情で欲望に溺れているかを知ったら……。そう想像するだけで、萌の背筋には悦びの悪寒が走った。
「ん……ぁ、優くん……すご……っ! もっと、もっと萌をめちゃくちゃにして……っ」
萌は優太の耳元で、あざとく、かつ淫らな吐息を漏らす。
彼女は熟知していた。優太が早苗との生活で感じている「重苦しい規律」や「正しい生活」への反動が、自分の出すこの「不謹慎な声」によって、どれほど暴力的なまでの興奮へと変換されるかを。萌はわざとらしく腰をくねらせ、優太の耳を甘噛みしながら、彼を理性の外側へと引きずり込んでいく。
「はぁっ、……萌、お前……最高だよ……っ。あいつとは、全然違う……。生きてる感じがする……っ!」
優太は、早苗には決して見せない、獣そのものの剥き出しの飢餓感で萌を貪り続けた。
萌は、優太の背中に爪を立て、快楽に顔を歪ませながら、心の中で早苗に語りかけていた。
(ねえ、お姉さん。聞こえる? お姉さんが必死に銀行で神経をすり減らして、一円のミスに怯えながら守っているこの『平穏な時間』。全部、萌が優くんと、こんなに気持ちいいことをするために用意してくれた舞台装置なんだよ。感謝してよね?)
「ぁ、あ……っ! 優くん、大好き……早苗さんより、萌の方が……優くんを幸せに、してあげられるよね……っ」
静まり返った栗原家に、肉体と肉体がぶつかる生々しく湿った音と、萌の、高音に突き抜けるような喘ぎ声が響き渡る。
優太は、銀行員としてのプライドも、夫としての誠実さも、すべてを萌の柔らかな肌の中に捨て去った。
一刻の情事が終わり、賢者モードに近い倦怠感の中にいる優太に対し、萌は追い打ちをかけるように「演出」を忘れない。
彼女は、先ほどの口紅をつけたワイシャツを取り出し、さも今気づいたかのような顔をして優太に手渡した。
「あ、優くん! これ、この前うちに忘れていったやつ。萌、洗おうと思ったんだけど、なんだか早苗さんのアイロンが完璧すぎて、萌の手で崩しちゃうのが怖くて……。そのままにしておいたから、持って帰ってね?」
「……ああ、悪い。助かるよ」
優太は、そのシャツに付けられた「罠」に気づくことなく、鞄の中に押し込んだ。
萌は、彼が帰っていく背中を見送りながら、玄関の影で静かに、狂おしいほどの満足感に浸った。
(お姉さん。まだ、私のことを『可哀想な妹』だと思っててね。その期待が大きければ大きいほど、真実を知った時の顔が楽しみなんだから……)
萌は、鏡の前で再び「可哀想な幼馴染」の表情を作り、佐藤家から聞こえてくるであろう物音に、耳を澄ませた。
その瞳には、一滴の情愛も、罪悪感も存在しなかった。そこにあるのは、獲物が自ら網に絡まり、息絶える瞬間を待つ蜘蛛の、静謐で、どこまでも残酷な輝きだけだった。
(第10話へ続く)




