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平穏

狂乱の夜から一週間。佐藤家には、信じられないほどの静寂が訪れた。

 


 あの事件の翌日、早苗はいつも通り、午前六時に起床する。


 鏡の中には、短く切り揃えられた髪をワックスで整え、一点の曇りもない予備の眼鏡をかけた、理性的で冷徹な女がいた。彼女は夜通しで家中の汚れを拭い去り、床にこぼれた煮汁の跡も、割れた皿の破片も、すべてを無に帰した。

 

 リビングへ降りると、そこには「化け物」が正常に戻ったのかを疑う、正江の怯えた気配があった。


「……おはようございます、お母様」


 丁寧な会釈。凪のような瞳。それがかえって不気味だったのか、正江は逃げるように奥へ引っ込んだ。優太もまた、早苗の隣に座ることすら避けている。


「早苗、お前……一回、病院行った方がいい。精神科とか、俺が探してやるから」


「ありがとうございます。でも、もう平気ですから。仕事に行ってまいります」


 早苗は、夫の「配慮」という名の拒絶をさらりと受け流し、玄関を出た。





それから数日は、萌のサンダルが玄関に並ぶことはなく、あの甘ったるい笑い声が壁を越えてくることもない。早苗にとって、それは半年ぶりに訪れた「完全なる平穏」だった。


 職場である銀行でも、同様だった。


 バッサリと短くなった髪に、行員たちは一様に言葉を失ったが、彼女が以前にも増して精密なマシーンのように事務を処理していく姿を見て、周囲は次第に安堵の色を浮かべ始めた。


「佐藤さん、吹っ切れたみたいだね」


「あのミスがよほど悔しかったんだろう。やっぱり彼女は鉄の女だ」


 そんな囁きが、彼女の耳に心地よく響く。一円の狂いもない数字の世界。そこだけが、早苗の理性を繋ぎ止める生命維持装置だった。






 しかし。




 早苗が「平穏」という名の硝子の城を死守している裏側で、現実は醜悪な形をして腐食し始めていた。


 午後二時。本来の営業先とは全く異なる方向へ、銀行の営業車が滑り込んだ。


 閑静な住宅街の一角にある、栗原家。優太は周囲を気にする素振りも見せず、勝手口の合鍵を使った。


「……あ、優くん。今日も来てくれた」


 薄暗い玄関で待っていたのは、ゆるいキャミソール一枚にショートパンツという、あられもない姿の萌だった。


 萌は優太の首に抱きつくと、その厚い胸板に頬を寄せ、喉の奥を鳴らす。


「怖かった……あの日の早苗さん、今思い出しても震えちゃう。ねえ、もうあんな家に戻らなくていいでしょ? 萌と一緒にここにいようよ……っ」


 萌の白い指先が、優太のネクタイをゆっくりと解いていく。


 優太は、早苗が毎朝きっちりと結んでいるその布を、萌が乱暴に引き抜く感触に、得も言われぬ背徳感を覚えていた。


「ああ……分かってる。あいつはもう、中身が壊れてるんだ。お前といる時だけが、俺の本当の時間だよ」


 優太は萌を抱き上げ、ソファへと押し倒した。



 昼下がりの柔らかな光が差し込むリビング。早苗が「完璧な行員」として電卓を叩いているその時間に、優太は萌の柔らかな肌に指を沈めていた。


「ん……ぁ、優くん……すご……っ」


 萌は優太の耳元で、あざとく鼻にかかった甘い声を漏らす。


 彼女は知っている。優太が早苗との間に感じている「重苦しい正しさ」への反動を、自分の淫らな声がどれほど刺激するかを。萌はわざとらしく腰を揺らし、優太の欲望を煽るように、乱れた吐息を彼の首筋に吹きかけた。


「はぁっ、……萌、お前、最高だよ……っ。あいつとは、全然違う……」


 優太は、早苗には決して見せない、獣のような剥き出しの欲望で萌を貪った。


 萌は、優太の背中に爪を立て、快楽に顔を歪ませながら、心の中で早苗を嘲笑っていた。


(ねえ、お姉さん。お姉さんが必死に働いて守ってるこの『時間』。全部、萌が優くんとエッチするために使ってあげてるんだよ?)


「ぁ、あ……っ! 優くん、もっと……もっと萌を壊して……!」


 静かな栗原家に、肉体と肉体がぶつかる湿った音と、萌の甲高い喘ぎ声が響き渡る。


 優太は、銀行員としてのプライドも、夫としての自覚もすべて捨て去り、萌が与える甘美な毒に溺れていった。


 窓の外では、何も知らない太陽が穏やかに街を照らしている。


 早苗は銀行のデスクで、正確なリズムで伝票をめくり続けていた。

 

 一、二、三、四――。

 

 彼女が数えているのは、もはや金ではない。

 自分が「まとも」でいるための、最後の秒針の音だった。

 

 彼女の知らない場所で、彼女が支える「日常」が、淫らな熱気によってドロドロに溶かされている。


 その平穏が、ただの「死刑執行までの猶予」であることを、早苗はまだ、知る由もなかった。


(第9話へ続く)

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