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初めての自由

雨が、アスファルトの匂いを巻き上げていた。


 短く切り刻まれた黒髪は、雨水を吸って頬にべったりと張り付いている。割れた眼鏡を捨てた視界は、水彩画のように滲んで境界を失っていた。


 早苗は自分がどこを歩いているのかも分からなかったが、身体に刻まれた記憶だけが、彼女をあの「家」へと導いていた。


 ガチャリ、と玄関の鍵を開ける。


 泥のついた裸足のまま、彼女は静かに中へ入った。


「あら、早苗さん? やけに遅かったじゃな……」


 リビングから出てきた正江の声が、途中で凍りついた。


 廊下の明かりの下、濡れ鼠のような姿で立ち尽くす嫁。髪は不揃いに短く、瞳には焦点が合っていない。その異様な姿に、正江は手に持っていた茶碗を落としそうになった。


「な、何よその格好……! 髪、どうしたの!? 銀行で何かあったの?」


 早苗は答えない。ただ、ゆっくりと視線をリビングへ向けた。


 そこには、先程営業車で見かけた優太と、当然のように彼の隣でくつろいでいた萌がいた。


「おー早苗、遅いぞ。飯……えっ、早苗……?」


 優太が立ち上がり、絶句する。


 萌もまた、手に持っていたスマホをソファに落とした。彼女の「あざとい微笑み」が、初めて恐怖に引き攣る。


「早苗さん……? 嘘、その髪……どうしたんですか? 何か事件にでも……」


 萌が震える声で尋ねる。


 早苗は、ゆっくりとリビングの中央へ歩み寄った。


床には彼女の足跡が、泥と雨水の混じった黒い点として残っていく。いつもなら、彼女自身が真っ先に雑巾で拭き取っていたはずの汚れ。だが今の彼女は、それを一顧だにしない。


「……ミスを、したの」


 早苗の口から、掠れた声が漏れた。

 それは人間らしい感情を失った、壊れた蓄音機のような響きだった。


「十円、間違えたの。たった、十円。……あは、はは」


「十円……? 何言ってんだよ、そんなことよりその髪と足! 病院行くか? それとも警察か?」


 優太が肩を掴もうと手を伸ばすが、早苗はその手を、羽虫を払うような動作で冷たく払いのけた。


 彼女は、テーブルの上に置かれた萌の手料理――今日は豪華な煮付けだった――をじっと見つめた。そして、おもむろにその皿を手に取る。


「早苗さん、危ないですよ! 萌が作ったお魚……」


 早苗は、萌の言葉を遮るように、皿を傾けた。


 黄金色の煮汁が、早苗の白いブラウスと、磨き抜かれたフローリングに、音を立ててこぼれ落ちていく。


「あああ! 何するのよ、この女!」



 正江が悲鳴を上げる。



「早苗! お前、狂ったのか!」



 優太の怒号が飛ぶ。


 だが、早苗は笑っていた。


 煮汁が足元に広がっていくのを見つめながら、彼女は生まれて初めて、この家で「自由」を感じていた。


 一円の狂いもなく数字を合わせる必要はない。


 義母の機嫌を伺う必要もない。


 夫の不実を論理的に分析し、傷つく必要さえない。


「……完璧じゃ、なくなったから」


 早苗は、空になった皿を、指を離すようにして落とした。


 パリン、と小気味よい音がして、陶器の破片が萌の足元まで飛び散る。



「ひっ……!」



 萌が悲鳴を上げ、優太の背中にしがみついた。



「優くん、怖い……! 早苗さん、やっぱりおかしいよ! 萌、もうここにいられない……っ」


「萌、大丈夫だ、俺がついてる!」 


 優太は萌を抱き寄せ、早苗を睨みつけた。


「お前、いい加減にしろよ! 仕事で失敗したからって、萌や俺に八つ当たりして……お袋の言う通りだ、お前は本当に化け物だよ!」



 化け物。



 その言葉を聞いた瞬間、早苗の脳裏に、かつての自分が大切にしていた「鉄の女」の誇りが、塵となって消えていくのが見えた。 


「そう……化け物。いい言葉ね、優太さん」


 早苗は、切られた髪をかき上げ、狂気を含んだ瞳で優太を見つめた。


 彼女の視線は、もはや夫としての優太を見ていない。ただの、処理すべき「ノイズ」として彼を認識している。


「萌さん。……怖い? なら、もっと怖くしてあげる」



 早苗はふらふらとキッチンへ向かい、引き出しを開けた。


 そこにあるのは、彼女が毎日、家族のために研ぎ澄ませていた包丁だった。



「ちょ、早苗! やめろ!」



 優太が駆け寄ろうとするが、早苗は包丁を手に取るのではなく、その隣にある「結婚式の写真」が飾られたフォトフレームを掴み出した。


 幸せそうに笑う、一年前の自分と優太。


 早苗は、その写真を迷うことなく、流し台に溜まった汚水の中に沈めた。


「もう、いらないの。……全部、いらない」


 早苗はそのままリビングを横切り、二階の自分の部屋――今は萌に汚されたあの寝室――へと階段を上がっていく。


 背後で、萌の泣き声と、優太の罵声、そして義母の呪詛のような叫びが入り混じる。


 部屋に入り、鍵をかける。


 早苗は、萌の香水の匂いが残るベッドの上に、泥だらけの体で横たわった。

 

 窓の外では、雨が激しさを増していた。


 早苗は暗闇の中で、自分の短い髪を指でなぞりながら、静かに、静かに、歌を歌い始めた。


 それは、優太が好きだと言っていた古いラブソングだったが、彼女の口から漏れるメロディは、死者の弔いのように冷たく響いていた。


(第8話へ続く)

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