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朝、六時十五分。


 早苗は寝室の床で目が覚めた。昨夜、優太と萌、そして義母がリビングで酒を酌み交わす笑い声に耐えきれず、自室のドアに鍵をかけ、そのまま意識を失うように眠ってしまったのだ。


 体中の節々が痛む。鏡を見ると、眼鏡の奥の瞳は充血し、自慢の黒髪も湿気を含んで重く垂れ下がっていた。


(大丈夫……私は、まだやれる)


 呪文のように呟き、彼女は冷水で顔を洗う。

 リビングに降りると、そこには昨夜の宴の残骸が散乱していた。萌が持ち込んだ空のワインボトル。義母が用意した、脂の固まった大皿。そして、脱ぎ捨てられた優太のネクタイ。


 いつもなら無言で片付ける早苗だったが、今朝はそれらを跨ぎ、何も口にせず家を出た。一刻も早く、数字だけが支配する「正常な世界」へ逃げ込みたかった。


 銀行のロビーに差し込む朝日を浴びて、早苗はようやく深い息を吐く。


 だが、デスクに座っても、耳の奥で萌のあの甘ったるい声がリフレインする。


『早苗さん、そんなに仕事が大事なら、優くんは私が預かってあげますね』


 昨日、すれ違いざまに囁かれた幻聴のような言葉が、脳の裏側に張り付いて剥がれない。


「佐藤さん、これ。例のA社への融資実行分、最終確認お願いできるかな」


 上司から渡された書類の束。早苗は「承知いたしました」と、いつもの硬質な声で応えた。


 いつもなら、一読するだけで違和感を察知できるはずの数字。だが、今日は文字が滑る。



 ――二十万円。

 

 優太が勝手にカードから引き出したあの数字が、書類のあちこちで蠢いているように見えた。


 早苗は強く瞬きをし、眼鏡を拭き直す。


(集中しなさい。あなたは「鉄の女」でしょう。家の不始末を職場に持ち込むなんて、それこそあの女たちの思うツボよ)


 だが、その日の午後のことだった。


 窓口の行員が、青ざめた顔で早苗の元へ駆け寄ってきた。


「佐藤さん……すみません、さっき処理していただいた伝票、一件だけ、振込先と金額に……その、相違があるみたいで」


 早苗の指が止まった。 


「……そんなはずはありません。私がトリプルチェックをしました」


 冷淡な声で言い放ち、差し出された伝票を奪い取る。


 そこには、早苗が入力した数字があった。


 本来「880,000」とあるべき箇所に、「880,010」と記されている。


 わずか十円の差。

 

 だが、一円の狂いも許されない銀行員にとって、それは致命的な汚点だ。


 さらに、振込先のカナ氏名の一文字が、濁音の有無で間違っていた。

 

 早苗は凍りついた。

 ミス。自分が。


 新人でもやらないような、注意散漫による単純な誤入力。


「……すぐに修正処理を。顧客への連絡は私が行います」


 声が震えていた。周囲の行員たちが、ざわめき始める。


「あの佐藤さんがミス?」


「やっぱり、最近様子がおかしかったもんね」

 

 その視線の中に、営業から戻ってきたばかりの優太が入った。


 彼は状況を察したのか、驚いた顔を見せた。



 謝罪の電話をかけ終えた早苗は、女子トイレの個室に逃げ込んだ。

 


 心臓の鼓動がうるさい。


 十円。たった十円のミス。


 けれど、その小さな「欠け」は、早苗が人生をかけて積み上げてきたプライドという巨塔に、決定的な亀裂を入れるのに十分だった。

 

 (私は……もう、壊れているの?)

 

 家庭でのストレス、寝不足、孤立。それらがじわじわと彼女の神経を削り、ついに彼女のアイデンティティである「正確さ」を破壊したのだ。


 萌や義母に何を言われても、「仕事さえ完璧なら私は負けていない」と思えた。だが、その最後の砦が崩れた今、彼女を支えるものは何一つ残っていなかった。


 終業後、早苗は泥のように重い体を引きずって駅へ向かった。


 いつもなら背筋を伸ばして歩く通勤路。だが、今日は眼鏡が曇り、足元がふらつく。


 ふと、路地裏の暗がりに、見慣れた営業車が停まっているのが見えた。


 優太だ。


 そして、その助手席には、ゆるふわの茶髪を揺らした萌が座っていた。

 

 二人は、早苗の視線に気づいていない。


 萌は、優太の耳元で楽しそうに何かを囁き、彼の手の甲を優しくなぞっている。

 

 早苗は、電柱の陰に身を隠した。


 怒りは湧かなかった。ただ、圧倒的な「虚無」が彼女を包み込んだ。


 仕事でのミス。夫の不実。侵食された家庭。

 

 すべてが、どうでもよくなっていく感覚。

 

 早苗は、カバンの中から事務用のハサミを取り出した。

 職場でペンを整理するために持ち帰っていた、鋭利な刃先。

 

 彼女は、街灯の光に反射するその刃を見つめた。

 そして、おもむろに自分の後頭部へと手を伸ばす。

 

 きつく結び上げられていたポニーテール。

 早苗の「規律」と「プライド」の象徴だったその黒髪の束を、彼女は迷いなく、ハサミの刃で挟み込んだ。

 

 ジャリ、という嫌な音が鼓膜に響く。

 

 地面に、長く美しい黒髪の束が、まるで死んだ蛇のように力なく落ちた。

 

 眼鏡を外し、地面に叩きつける。

 パリン、とレンズが割れる乾いた音がした。

 

 視界はぼやけ、世界は色のついた濁流へと変わる。

 早苗は、切り刻まれて短くなった髪を振り乱し、割れた眼鏡を無造作に踏みつけた。

 

 「……あは、はは」

 

 口から漏れたのは、自分でも驚くほど乾いた笑い声だった。

 

 完璧な早苗は、死んだ。


 今、雨が降り始めた夜の街に立っているのは、心も、髪も、理性の鏡もすべて粉々に砕け散った、ただの抜け殻だった。

 

 彼女は裸足のまま、一歩、歩き出す。


 その先にあるのが、家なのか、それとも地獄なのか。


 今の彼女には、判別する知性さえ残されていなかった。


(第7話へ続く)

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