寝室の侵食
生ゴミの袋を縛る指先が、微かに震えていた。
隣の家からは、楽しげな音楽が漏れ聞こえてくる。夫と、義母と、幼馴染。自分の「家族」が、自分を「悪魔」に仕立て上げた祝宴を隣家で開いている。
早苗はキッチンの床に膝をつき、しばらく動けなかった。
(私は、間違ったことは言っていない。生焼けの肉は危ない。それを指摘して、なぜ私が責められなければならないの……?)
銀行員としての理性が、必死に答えを探そうとする。だが、この家には「正解」など存在しないのだ。そこにあるのは、萌という甘い毒を媒介にした、湿った感情の共犯関係だけだった。
翌朝、早苗は出社前に、ある違和感に気づいた。
リビングの棚に置いていた、自分名義の予備のキャッシュカード。この家での急な出費や、義母の通院費などのために予備として置いていたものだ。
そのカードの向きが、昨日置いた位置から数ミリずれていた。
早苗は、嫌な予感に襲われながら、出勤途中にATMへ寄った。
機械から吐き出された明細書を見て、彼女の視界が白く染まる。
――昨夜、二十万円が引き出されていた。
引き出し時刻は午後十一時。早苗が一人で寝室に閉じこもっていた時間だ。暗証番号を知っているのは、早苗と、そして「もしもの時のために」と教えていた優太だけ。
昨夜の萌へのブレスレットの代金か、それとも。
その日の昼、早苗は銀行の裏階段で優太を捕まえた。
「優太さん、話があります」
優太は他の行員と談笑していたが、早苗のただならぬ気配に、不機嫌そうに舌打ちをして歩み寄ってきた。
「なんだよ、仕事中に。お前、昨日のことまだ怒ってんのか?」
「私のカードから、二十万円引き出しましたね。何に使ったんですか?」
早苗が明細書を突きつけると、優太は一瞬たじろいだが、すぐに開き直った。
「ああ、あれな。……萌の家の給湯器、本当に壊れてたんだよ。泰三さんも出張中で、萌が震えながら水でシャワー浴びてるって聞いて、放っておけるかよ。修理代と、しばらくホテルに泊まるための費用だよ」
「……なぜ私のカードを使うんですか? あなたの給与口座にもお金はあるはずです」
「俺のは今月、営業の付き合いでキツいんだよ! お前は貯め込んでるだろ? 困ってる『妹』を助けるのに、夫婦の金を使うのがそんなに悪いことか? お前、本当に金に汚いな」
「夫婦の金ではありません、私の独身時代からの貯蓄も含まれています。返してください」
「返せ、返せって……。お前さ、そんなに数字が大事なら、一生通帳と寝てろよ」
優太は早苗の肩を乱暴に突き放し、営業車へと向かった。
早苗はその場に立ち尽くす。
彼にとって、早苗の労働の対価は「萌を救うためのフリー素材」でしかないのだ。
その日の夜、早苗はあえて早く帰宅した。
これ以上、好き勝手にはさせない。カードは止め、暗証番号も変える。そして、優太と一対一で、離婚も視野に入れた話し合いをするつもりだった。
だが、二階の寝室の扉を開けた瞬間。
早苗は、持っていた鞄を床に落とした。
夫婦のダブルベッドの上に、萌が座っていた。
彼女は、早苗が大切にしていたシルクのパジャマを勝手に身に纏い、二人でタブレットで映画を見ていた。
「……あ、早苗さん。お帰りなさい」
萌が、さも当然のように微笑む。
「萌ちゃんち、まだお湯が出なくて……。お義母さんが、『今日はうちでゆっくりしていきなさい』って。このパジャマ、肌触り最高ですね。早苗さん、いい趣味してる」
「出ていって」
早苗の声は、地を這うように低かった。
「出ていって……! 私の部屋から、私のパジャマを脱いで、今すぐ!」
早苗の叫びに、萌はビクッと肩を揺らし、優太の背中に隠れるようにして震えだした。
「怖い……優くん、早苗さんが怖いよぅ……っ。萌、ただ早苗さんの使ってるパジャマが素敵だねって優くんと話してて、ちょっと触らせてもらっただけなのに……」
優太は、泣き出しそうな萌を庇うように一歩前に出ると、早苗を汚物でも見るような目で睨みつけた。
「早苗、お前いい加減にしろよ! 萌はただ、お前のセンスを褒めてただけだろ。お前がいつも仕事でピリピリしてて、萌はお前を心配してるだけなんだよ。」
「……心配? 他人の寝室に勝手に入って、人の服を身に着けることが心配だと言うんですか? 異常ですよ、あなたたち」
「異常なのはお前の方だよ! 萌は家族みたいなもんだって、何度も言わせるな。」
優太は萌の肩を抱き寄せ、逃げるように寝室を出ていった。萌は去り際、優太の胸元に顔を埋めながら、チラリと視線だけを早苗へ向けた。
その瞳は、涙など一滴も浮かんでおらず、ただ早苗の領域を「汚した」という静かな達成感に満ちていた。
バタン、とドアが閉まる。
早苗は、乱れたベッドの上に崩れ落ちた。
萌の使った安っぽい甘い香水の匂いが、早苗の清潔な枕にべったりとこびりついている。
自分の金、自分の居場所、自分のプライド。
全てが、あの中身のない、空っぽなはずの女に少しずつ奪われていく。
早苗は、震える手で眼鏡を外した。
視界がぼやける。
(まだだ……まだ、不倫と決まったわけじゃない。優太さんはただ、あの女に調子良く振り回されているだけ。お母様も、昔からの情に絆されているだけ……)
そう自分に言い聞かせなければ、理性を保てなかった。
その夜、早苗は寝室のシーツをすべて剥ぎ取り、深夜のランドリールームで何度も洗濯機を回した。
水が渦巻く音を聞きながら、彼女は一晩中、意味のない数字の羅列を呟き続けた。
明日には、また銀行に行かなければならない。完璧な「佐藤さん」として、一円の狂いもなく数字を合わせなければならない。
だが、洗っても洗っても、鼻の奥に萌の香水が残っているような気がして、早苗は自分の皮膚を赤くなるまで擦り続けた。
絶望は、決定的な「現場」を見るよりも先に、こうした小さな日常の崩壊から、彼女をじわじわと追い詰めていった。
(第6話へ続く)




