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こんな地獄でも、まだ泣かない

月曜日の朝。銀行のロビーに差し込む光は、早苗にとって救いだった。


 この場所では、数字が全てだ。感情や血縁、幼馴染という名の甘えは通用しない。早苗はきっちりとアイロンの当たった白シャツの襟を正し、黒髪を隙のないポニーテールにまとめ上げる。鏡の中の自分は、まだ「早苗」という個を保っているように見えた。


「佐藤さん、今朝の融資会議の資料、完璧でした。さすがだね」


 支店長からの言葉に、早苗は「恐縮です」と事務的な笑みを返す。


 だが、そのすぐ後ろを、営業カバンを肩にかけた優太が、欠伸を噛み殺しながら通り過ぎていった。


 優太は早苗と目が合っても、挨拶すらしない。それどころか、同僚の男性行員と「昨日の酒が残っててさぁ。隣の萌が、迎え酒だってビール持ってきやがって」と、職場で家庭内の秘事を、それもあえて早苗に聞こえるような声で話していた。


 早苗はペンを握る指先に力を込める。


(ここは職場よ。私情を持ち込んではいけない。私は、銀行員としてここにいる)

 

 だが、その決意は昼休みに無残にも打ち砕かれた。

 早苗が休憩室に入ると、若い女子行員たちがスマホを囲んで騒いでいた。


「え、これ佐藤(優太)さんの幼馴染さん? モデルみたいにかわいい!」


「ねえ見て、このSNS。毎日『お兄ちゃんがご飯作ってくれた』とか『お兄ちゃんの家でまったり』とか。これ、佐藤さんのことだよね?」


 早苗の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。


 画面には、萌のアカウントが映し出されていた。そこには、佐藤家のダイニングで、早苗が買ったばかりのブランド皿に盛られた料理と、優太の「腕」だけが写った写真が並んでいた。


 タグには「#幼馴染は家族」「#お義母さん大好き」「#優しいお兄ちゃん」。


 そして最新の投稿には、早苗が昨夜ゴミ箱で見つけた、あのワインのラベルが映っていた。


『特別なワイン、開けちゃった♡ 二人だけの秘密』


「……皆さん、休憩時間はもう終わりですよ」


 早苗が冷徹な声で告げると、行員たちは「すみません!」と蜘蛛の子を散らすように去っていった。

 一人残された休憩室で、早苗は膝の上に置いた拳を震わせる。


 あざとい。あまりにもあざとい。


 萌は、早苗が仕事をしている間に、着実に彼女の「日常」をコンテンツとして消費し、優太を自分だけのものとして世界に発信していた。


 その日の夕方、早苗は定時で銀行を後にした。


 昨夜のワインの一件を、今日こそは冷静に問い詰めるつもりだった。


 だが、家のリビングに入った瞬間、彼女を待っていたのは「問い詰め」など不可能な、さらに異常な光景だった。


「あら、早苗さん。お帰り。萌ちゃんが、今日はいいことがあったからってお祝いしてくれるんですって」


 正江が上機嫌で、萌の手料理――脂っこい揚げ物の数々――を並べていた。


 そこには優太も、そして萌の父である泰三も座っていた。


「早苗さん、お疲れ様です! 萌、今日フリーター卒業して、お父さんの会社の経理を手伝うことになったんです。お祝いに、優くんにお願いして、これ……買ってもらっちゃいました」


 萌が突き出した手首には、繊細な金のブレスレットが光っていた。

 早苗はそのデザインに見覚えがあった。優太が結婚前、早苗に「いつかプレゼントするよ」と指を差していた宝飾店のものだ。


「……優太さん。これ、どういうこと?」


 早苗の声が、怒りで低く震える。優太は揚げ物を口に運びながら、面倒そうに鼻を鳴らした。


「なんだよ、萌のお祝いだぞ? 泰三さんにもいつも世話になってるし、俺がちょっと金を出したくらいでガタガタ言うなよ。お前、また金の話か?」


「金の話ではありません。そのブレスレットを、私に贈ると言ったのはあなたです。それに、今月の私たちの貯金計画はどうなっているんですか?」


「貯金貯金って! お前は本当にかわいくないな! 萌を見ろよ、『優くんありがとう』ってこんなに喜んでくれてるんだぞ。お前みたいに、プレゼントしても値段を逆算するような女に、誰が何かあげたいと思うんだよ!」


 横から、萌の父・泰三が「まあまあ、早苗さん。萌も悪気はないんだ。優太くんとは昔から兄妹のようなもんだから」と、無責任な助け舟を出す。

 


 地獄だ。





 早苗は、目の前の光景が信じられなかった。


 自分の稼ぎで維持されているこの家で、夫が他の女に宝飾品を贈り、その女の父親までもが「家族の論理」でそれを肯定する。


 そして義母は、早苗を蔑むような目で見つめながら、萌の腕を優しく撫でている。


「早苗さん、あなたも一つ食べたら? 萌ちゃんが、早苗さんはお疲れみたいだから、栄養をつけさせてあげたいって、一生懸命揚げてくれたのよ。あ、でも眼鏡に油が飛んじゃうかしら?」


 正江の笑い声が、耳鳴りのように響く。


 早苗は、食卓に並んだ鶏の唐揚げを一つ、箸で取り上げた。


 それは中まで火が通っておらず、血の混じった赤い肉が見えていた。


「……生です。これ」


 早苗が静かに告げると、萌の大きな瞳に、一瞬で涙が溜まった。


「えっ……ごめんなさい! 萌、一生懸命やったのに……やっぱり早苗さんみたいに完璧にはできない……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」




「早苗! お前、いい加減にしろよ!」




 優太が椅子を蹴り上げて立ち上がった。


「萌がせっかく作ってくれたんだぞ! 生なら焼き直せばいいだろ! なんでそうやって、いちいち人を傷つけるような言い方をするんだ!」


「……私は、事実を言っただけです」


「その事実ってのが、人を殺すんだよ! お前には心がないのか!」


 優太は泣きじゃくる萌の肩を抱き寄せ、そのままリビングを出ていった。「萌、隣に行こう。こんな場所じゃ味がしねえよ」という言葉を残して。


 正江も「最低ね、あなた。人間の皮を被った計算機だわ」と吐き捨て、二人の後を追っていった。


 広いダイニングに残されたのは、早苗と、萌の父・泰三。


 泰三は気まずそうに頭を掻きながら、「すまないね。でも、早苗さんももう少し、萌に優しくしてやってくれないか。あの子は繊細なんだ」と言い残し、去っていった。


 一人きりのリビング。


 早苗は、皿に盛られたままの生焼けの肉を、素手で掴んだ。


 爪の間に、冷たい脂が入り込む。


 ふと、テーブルの隅に置かれた優太のスマホが光った。


 通知が見える。


『萌:優くん、さっきは守ってくれてありがとう。お部屋で待ってるね。今日は、お義母さんも公認なんだから……ゆっくりしていいんだよ。』


 早苗は、その画面をじっと見つめた。


 眼鏡の奥の瞳から、感情が消えていく。

 

 彼女は、汚れた手のまま、自分のポニーテールを解いた。


 黒い髪が、重く肩に落ちる。

 

 まだ、泣かない。


 泣いたら、彼女たちの思うツボだ。


 早苗は冷え切ったシンクに向かい、生焼けの肉を一つずつ、生ゴミ入れに押し込んでいった。

 


 不倫。情事。裏切り。



 その言葉が、ようやく輪郭を持って彼女の脳内に定着し始める。


 だが、早苗はまだ、自分が「狂う」ための準備ができていなかった。

 

 彼女が次に取るべき行動は、銀行員らしく、この「不良債権」をどう処理するか、その計画を立てることだけのはずだった。


 しかし、指先にこびりついた鶏の脂の匂いが、どうしても、取れなかった。


(第5話へ続く)

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