崩壊の音
週末の土曜日。早苗は久しぶりの休日にもかかわらず、午前七時には目が覚めていた。
隣のベッドでは、昨夜遅くに帰宅した優太が、酒の匂いを漂わせて深い眠りについている。
早苗は溜息を飲み込み、一階へ降りた。この家で、彼女が唯一「自分の居場所」として維持しているのは、週末の朝の丁寧な掃除と、自分が淹れる珈琲の香りだけだった。
しかし、キッチンに入った瞬間、早苗の平穏は打ち砕かれた。
「あら、早苗さん。やっと起きたの。仕事がお休みだと、随分とゆっくりなのね」
義母の正江が、すでに食卓で萌と談笑していた。萌は佐藤家のエプロン――早苗が予備として買っておいたもの――を身に着け、手慣れた様子で味噌汁の味見をしている。
「おはようございます、お母様。……萌さん、どうしてここに?」
「あ、早苗さん! おはようございます。今朝、お父さんが出張から帰ってくる予定だったんですけど、急に延びちゃったみたいで……。冷蔵庫が空っぽで困ってたら、お義母さんが『うちで食べなさい』って言ってくださったんです」
萌は、自分の家のように冷蔵庫を開け閉めし、早苗が自分のために買っておいた高級な発酵バターを贅沢にパンに塗っている。
「早苗さん、そんなに怖い顔しないで。萌ちゃんは親切で、掃除も手伝ってくれるって言ってくれてるのよ。あなたみたいに、掃除機をかけるだけで『家事をしました』って顔をする人とは大違いだわ」
正江の言葉は、早苗のプライドを執拗に削る。早苗はこの家のローンを実質的に半分以上負担し、生活費のほとんどを算出している。だが、この家の中でその功績が認められることはない。むしろ「金を稼ぐ可愛げのない女」というレッテルを貼られる材料にされるだけだ。
「……お母様、今月分の生活費、口座に入れておきましたから」
早苗が事務的に告げると、正江は鼻を鳴らした。
「お金、お金って。優太がどれだけ外で気を遣って働いているか、分かっているのかしら。あの子は今、営業成績で悩んでいるのよ。萌ちゃんみたいな優しい子が支えてくれないと、あの子、壊れちゃうわ」
その時、二階から優太が降りてきた。寝癖をつけたままの彼は、早苗の姿を見ると露骨に顔を曇らせ、萌の姿を見つけるとパッと表情を輝かせた。
「お、萌。飯? 腹減ったわ」
「優くん、おはよ! 今日は優くんの好きな、出汁をしっかり取ったお味噌汁だよ」
「最高。やっぱ萌の飯が一番落ち着くわ」
優太は早苗の横を通り抜け、萌の隣に座る。早苗が用意した珈琲には目もくれず、萌が差し出すお茶を啜った。
「……優太さん。今日、午後から家具屋に行くと約束していましたよね?」
早苗の言葉に、優太は「あ?」と面倒そうに声を上げた。
「ああ、あのソファか。……悪い、今日は萌の家の庭木の剪定を手伝う約束しちまったんだ。泰三さん(萌の父)がいないから、萌一人じゃ大変だろ?」
早苗の指が、珈琲カップの縁で白くなる。
「その約束は一ヶ月前からしていました。今のソファ、バネが壊れていて、私の腰痛も酷くなっていると言いましたよね」
「たかがソファだろ? 萌の家は防犯上も危ないんだよ。木が伸び放題だと泥棒が入るかもしれないだろ。お前はいいよな、自分一人で何でもできる『強い女』だから。萌は違うんだよ。俺がいないとダメなんだ」
優太は萌の頭を優しく撫でた。萌は猫のように目を細め、早苗にだけ見える角度で、勝利を確信した薄笑いを浮かべた。
昼過ぎ。早苗は一人で家具屋へ向かう気力も失い、リビングの隅でPCを開き、週明けの融資案件のチェックを始めた。
窓の外からは、優太と萌の楽しげな声が聞こえてくる。生垣越しに、二人で笑い合いながら枝を切る様子は、新婚夫婦そのものだった。
夕方。剪定を終えた優太が、萌を連れて戻ってきた。
「あー疲れた! 萌、シャワー貸してやるよ。お前んち、給湯器の調子悪いんだろ?」
「えっ、いいの? 悪いよぉ、早苗さんもいるのに……」
「いいって。な、お袋?」
「ええ、もちろんよ。萌ちゃん、着替えも私のを貸してあげるから」
早苗の目の前で、他人の女が自分の家の風呂に入っていく。
早苗はPCを閉じ、震える声で言った。
「……優太さん。それは、いくらなんでも失礼ではありませんか」
「何がだよ。幼馴染がシャワー浴びるくらい、家族みたいなもんだろ。お前、本当に心が狭いな。そんなんだからレスになるんだよ」
優太の言葉が、鋭いナイフとなって早苗の心臓を抉った。
レスの原因は、自分の性格のせいだと言いたいのか。毎日、この家で無視され、否定され、それでも「妻」として立っていようとする自分の努力が、その一言でゴミのように捨てられた。
一時間後、風呂から上がってきた萌は、正江から借りたという、少しサイズの大きいTシャツを着ていた。その襟元からは、萌の白い鎖骨と、濡れた髪が覗いている。
「早苗さん、お風呂お借りしました。さっぱりしちゃった。……あ、これ、お詫びです」
萌が差し出したのは、一本の高級なヘアオイルだった。
「これ、優くんが『早苗さんの髪、最近パサついてるからプレゼントしたい』って相談してくれたんです。萌が選んだんですよ。使ってくださいね」
早苗はそれを受け取らず、ただ萌を見つめた。
優太が自分を気遣って選んだのではない。萌が「早苗のパサついた髪」を指摘し、優太に金を出させたのだ。
そのヘアオイルのボトルが、早苗の視界の中で、醜く歪んだ。
夜。萌が隣家へ帰り、義母も自室に引き上げた後。
リビングに残された早苗は、ゴミ箱の中に、あるものを見つけた。
それは、早苗が優太との一周年記念のために大切に隠しておいた、一本のワインの空瓶だった。
ラベルには、萌の字でこう書かれていた。
『これ、美味しかったです! ごちそうさまでした♡ 萌・優太』
早苗の頭の中で、何かが「パチン」と音を立てて切れた。
怒りではない。悲しみでもない。
それは、これまで彼女を支えてきた「正しさ」という名の柱が、砂のように崩れ落ちていく音だった。
(第4話へ続く)




