挑発
銀行での業務を終え、早苗が佐藤家の玄関を開けたとき、廊下の奥からテレビの賑やかな音と共に、優太の屈託のない笑い声が聞こえてきた。
ここ一週間、会話を拒むように帰宅を遅らせ、あるいは自室に閉じこもっていた優太が、今日はリビングで寛いでいる。その「日常の音」が、早苗の凍てついていた心を微かに溶かした。
(……ああ、今日は早く帰ってきてくれたんだわ。やっぱり、あの日(狂乱の夜)のことは、彼なりに反省してくれているのかしら)
その事実に、早苗の胸の奥で小さな灯火が宿る。仕事での致命的なミス、自ら髪を切り刻んだあの夜の醜態。すべてを「なかったこと」にはできなくても、こうして同じ空間に身を置き、同じ空気を吸う時間が増えれば、壊れかけた夫婦の歯車はまた少しずつ噛み合っていくのではないか。
そんな、一人の「妻」としてのあまりにも脆く、けれど切実な願いを抱きながら、早苗は静かにリビングの扉を開けた。
「お帰り、早苗さん。今日は優太も早かったのよ。萌ちゃんがね、『今日は優くん、顔色が悪いみたいに見えたから、早く帰ってお嫁さんに甘えなさいって言っておいたわ』なんて電話を寄越してくれたのよ。あの子、本当に家族のように私たちのことを心配してくれているわね」
正江の言葉は、相変わらず無神経に萌を聖女のように称賛するものだったが、今の早苗はそれを穏やかな微笑みで受け流すことができた。今の彼女にとって、萌の存在は「家族の善意」という枠組みの中に無理やり押し込めておくべき対象だった。
「……そうですか。優太さん、お疲れ様です。お夕飯、すぐに温めますね。今日はあなたの好きな煮込み料理にしてありますから」
ソファに座る優太は、スマホの画面から目を離さずに、気まずそうに生返事をした。
「ああ。……そういえば、そこに萌が『洗い忘れた』っていうシャツがあるから。ついでに洗っておいてくれよ。萌のやつ、俺がこの前、給湯器の修理を手伝いに行った時に貸したシャツ、ずっと返し忘れてたんだってさ。今日、わざわざ持ってきてくれたんだ」
優太が顎で指差した先には、無造作に丸められた一着のワイシャツが置かれていた。
早苗はそれを手に取り、「わかりました」と短く応えてランドリールームへと向かった。その足取りは、どこか軽やかでさえあった。
しかし、ランドリールームの扉を閉め、一人きりになった瞬間。
鼻腔を突いたのは、佐藤家で使い続けている洗剤の匂いでも、一日中外を回り続けた男の汗の匂いでもなかった。
それは、重苦しく、脳の裏側に直接粘りつくような、人工的で甘ったるい香水の匂い。
早苗の指先が、氷に触れたかのように硬直する。
一週間前、自分の寝室と枕を汚したあの不快な芳香と、全く同じもの。
「…………」
早苗は、無意識に呼吸を止めていた。
シャツを慎重に広げる。それは、去年の優太の誕生日に、早苗が数軒の百貨店を回って選び抜いた、老舗ブランドの最高級シャツだった。彼女がアイロンをかける際、その生地の光沢に自分の愛情を投影していた、特別な一枚。
その襟元に、決定的な「印」があった。
淡いピンク色の、薄い紅の跡。
早苗の眼鏡の奥の瞳が、急速に焦点を結び、鋭利な剃刀のような光を宿した。
彼女は、その「汚れ」をじっと見つめる。一秒、二秒……。
やがて、銀行員としての、冷徹なまでの観察眼と分析能力が、パニックを起こしかけた感情を上書きしていった。
(……位置が、不自然だわ)
早苗の脳内の電卓が、カチリと音を立てて計算を開始する。
優太の身長は178センチ。それに対して萌は小柄だ。もし、二人が人目を忍んで抱き合ったり、情熱的に顔を寄せ合ったりしたのだとすれば、紅の跡はもっと低い位置――鎖骨のあたりや、胸元のボタンの隙間に擦れるはずだ。
しかし、この紅は、襟の最も目立つ位置に、まるで標本のようにくっきりと残っている。
(これは……抱擁の痕跡ではない。鏡を見ながら、誰かが自分の指に口紅を塗り、それを『ここに、この角度で』と狙い澄まして押し付けたものだわ。そう、誰かに見つけさせるために)
その結論に達した瞬間、早苗の胸に渦巻いていた疑念の暗雲が、一気に晴れていった。
不倫をしている男女が、わざわざこんな「私はここにいます」と叫んでいるような幼稚な証拠を、妻に渡す洗濯物に残すだろうか。あの臆病で、早苗の正論を何よりも恐れている優太が、そんな破滅的なリスクを自ら冒すはずがない。
(……そうか。これはすべて、萌さんの自作自演だわ。彼女、焦っているのね)
早苗の口元に、歪な、けれど勝利を確信した笑みが浮かんだ。
萌の狙いが、透けて見える。
萌は優太と不倫関係にあるのではない。むしろ、その逆だ。彼女は優太を自分のものにしたいあまり、早苗に「不倫をしている」という偽の情報を植え付け、早苗を疑心暗鬼に陥らせ、家庭崩壊へと導こうとしているのだ。
あの髪を切った夜、早苗が取り乱したことに快感を覚えた萌が、今度はこの安っぽい小道具を使って、私を再び「狂女」に仕立て上げようとしている。
(かわいそうな萌さん。私を甘く見すぎているわ。こんな子供騙しのトリックで、この私が屈するとでも思っているのかしら。……これは不倫の証拠ではない。彼女がいかに優太さんに執着し、そして私に嫉妬しているかという、敗北の証明よ)
不倫関係がないのであれば、優太はまだ「こちら側」にいる。彼はただ、妹のように慈しんでいる幼馴染の、歪んだ独占欲に無自覚に利用されているだけの「善良な兄」なのだ。そう解釈した瞬間、優太への怒りは消え失せ、代わりに彼を萌の毒牙から守らなければならないという、歪んだ使命感さえ芽生え始めた。
「早苗さん、どうしたの? 早く回しちゃいなさいよ。電気代がもったいないわ」
背後から、正江の急かすような声がした。早苗は、これ以上ないほど穏やかで、慈愛に満ちた表情で振り返った。
「すみません、お母様……優太さんのシャツ、萌さんが大切に預かっていてくれたみたいで、本当に助かりました。彼女に、あとでお礼を言わなくてはいけませんね」
早苗は迷いなく、そのシャツを洗濯機の中に放り込んだ。
ゴロゴロと、激しい水音を立てて回転を始める洗濯槽。
早苗は、その渦巻く水を見つめながら、勝利の美酒に酔いしれるような心地よさを感じていた。
萌が仕掛けた「猛毒」は、早苗の鉄の理性によって、ただの「惨めな片想いの残骸」へと変換されたのだ。
(いいわ、萌さん。あなたが私に戦争を仕掛けてくるというのなら、私は受けて立つ。あなたがどれほど優太さんに媚びを売り、汚らしい罠を仕掛けようとも、彼は私の『夫』であり、この家は私の城なの。……あなたは、一生そこから見ているだけでいいのよ)
早苗は、ランドリールームの鏡に向かって、短くなった髪を丁寧に整えた。
切り刻まれた髪は、今の彼女の目には、過去のしがらみを断ち切り、戦いに赴く女戦士の決意の証のように映っていた。
眼鏡を押し上げ、瞳の奥に冷徹な火を灯す。
(不倫なんて、そんな非論理的なことは起きていない。すべては、あの娘の浅知恵による独り相撲。……さあ、完璧な妻として、完璧な夕食を振る舞いましょう)
早苗は、確固たる「偽りの平穏」を全身に纏い、背筋を伸ばしてリビングへと戻っていった。
しかし。
早苗が「勝利」を確信し、優越感に浸りながら夕食を並べているそのとき。
隣の家で、萌が自分の首筋に残された優太の「本物の痕跡」を鏡越しに愛おしそうに撫で、早苗の予測など遥かに超えた「特上の絶望」を準備していることに、早苗はまだ、微塵も気づいていなかった。
(第11話へ続く)




