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勝利のティータイム

その日の佐藤家のリビングは、ここ数ヶ月で最も「平和」な空気に満ちていた。


 早苗は、キッチンで丁寧に淹れたアールグレイの香りを楽しみながら、ソファにくつろぐ優太と、その隣で所在なげに座る萌を、慈愛に満ちた――あるいは、圧倒的な勝者の余裕を湛えた瞳で見つめていた。


(……かわいそうな萌さん。あんな稚拙な小細工しか思いつかないなんて)


 早苗の脳裏には、数日前に洗濯機へ放り込んだあのワイシャツの光景が、鮮明な「解析データ」として保存されている。襟元の紅、不自然な位置、そして計算され尽くした香水の量。それらすべてが、早苗にとっては「萌の敗北宣言」にしか見えなかった。


 不倫をしている男女なら、もっと巧妙に隠す。あるいは、もっと生々しい「綻び」を見せるはずだ。あんな見せしめのような汚れは、手に入らない優太への執着が生んだ、哀れな自作自演に過ぎない。


 そう確信した瞬間、早苗の中で萌は「警戒すべき毒婦」から「教育すべき不出来な妹」へと成り下がった。


 だからこそ、早苗はあえて今日、萌を自宅でのティータイムに招いたのだ。


「萌さん、そのスコーン、私が今朝焼いたのよ。遠慮せずに召し上がって。優太さんも、これ好きでしょう?」


 早苗の声は、これ以上ないほど朗らかだった。


 優太は、数日前までの早苗の狂態が嘘のように落ち着き、むしろ自分から萌を招き入れたことに戸惑いつつも、安心したように顔をほころばせた。


「ああ、美味いよ。……よかったな萌、早苗が焼いてくれたんだぞ」


「……はい。お姉さん、ありがとうございます。本当に……お料理まで完璧なんですね」


 萌は、湯呑みを両手で持ち、俯き加減に答える。その肩が微かに震えているのを、早苗は「自分の威厳に圧倒されている」のだと解釈した。


(ええ、そうよ。私がこの家の主であり、優太さんの唯一の伴侶。あなたがどれほど隣の家から秋波を送ろうとも、この鉄壁の日常を崩すことはできないの)


 早苗は、背筋をピンと伸ばし、カップを唇に運ぶ。

 その所作のひとつひとつが、まるで銀行の重要書類に捺印する時のように正確で、無駄がない。彼女は今、人生という名の貸借対照表において、萌という「不良債権」を完全に相殺し、圧倒的な純資産を計上しているような全能感に包まれていた。


「萌さん、お湯が出ないって困っていたけれど、もう大丈夫なの? 泰三さんも出張でお寂しいでしょうし、困ったことがあったら、これからは優太さんじゃなくて、私に直接相談してちょうだいね。私からも、優太さんには『妹さんの面倒は私が責任を持って見るから』って伝えてあるのよ」


 それは、釘を刺すと同時に、萌の存在を「家族の介護対象」にまで引き下げる、早苗なりの高度な外交辞令だった。


 優太は、「ああ、それが一番だな。早苗が協力してくれるなら、俺も安心だ」と、能天気に笑っている。


 早苗は、その優太の笑顔を見て、心の中で深く頷いた。


 やっぱり、彼は何もしていない。私の分析通り、彼はただの善良なお人好しで、萌の歪んだ片想いに振り回されていただけなのだ。





 ――だが、そのとき。

 早苗の視界の端で、萌がゆっくりと顔を上げた。

 萌の瞳は、潤んでいるように見えた。

 しかし、その奥底に潜んでいるのは、早苗が期待していた「敗北の悔しさ」でも「改心の情」でもなかった。

 

 それは、あまりにも場違いで、あまりにもどす黒い、「爆笑」に近い光。


(……あはは。お姉さん、本当に面白い。最高に滑稽だよ)


 萌は、スコーンを一口齧り、その甘さを舌の上で転がしながら、心の中で猛毒を吐き散らしていた。

 早苗のあの「私はすべてを見抜いている」と言わんばかりの、誇らしげな顔。


 ワイシャツの紅を「自作自演」だと決めつけ、優太を信じることで自分のプライドを守ろうとする、その必死な論理武装。

 萌にとっては、それこそが最高のご馳走だった。

 あの日、優太が萌の家で「営業活動」と称して貪り尽くした、その熱い体温。

 萌の首筋に刻まれた、早苗には一生見せることのない、優太の獣のような歯形。

 そして何より、優太が萌の耳元で「あいつ(早苗)の正論にはもうヘドが出る」「萌の柔らかさだけが救いだ」と、泣き言を漏らしていたあの事実。

 それらすべてを「なかったこと」にして、このリビングで「完璧な奥様」を演じている早苗が、可笑しくて、可笑しくて、たまらない。


「お姉さん、本当に萌のこと、心配してくれてるんですね……。萌、お姉さんのそういう『正しいところ』、本当に尊敬しちゃいます」


 萌は、わざとらしく目を伏せ、しおらしい声を出す。


 その唇は、優太が数時間前に何度も吸い上げた、その同じ唇だった。

 

 早苗は、その言葉を額面通りに受け取り、「分かってくれればいいのよ」と、満足げに紅茶を注ぎ足した。

 

 今の早苗には、見えていない。


 自分の背後に立っている死神が、萌の形をしていることも。


 自分が「勝利の証」として振る舞っているこの茶菓子が、不倫相手の胃袋を贅沢に満たしている皮肉も。

 そして、自分の夫が、早苗の目を盗んでテーブルの下で、萌の膝をそっと撫でているその卑屈な手の動きさえも。


「優くん、お茶、美味しいね」


「ああ。早苗の淹れる茶は、いつも最高だよ」


 優太の言葉に、早苗は誇らしげに胸を張る。

 その様子を、萌はまつ毛の隙間からじっと観察していた。

 

(お姉さん、もっと酔いしれて。もっと、自分を『正解』だと思い込んで。……そうやって高く高く積み上げたプライドが、たった一滴の『真実』で崩れ落ちる時の音が、萌は一番聞きたいんだから)



 佐藤家のリビングには、穏やかな西日が差し込み、上質な茶葉の香りが漂っている。


 側から見れば、それはどこにでもある、少しだけ仲の良すぎる親戚同士の、微笑ましい午後の風景。

 

 だが、その中心で、早苗は自分が世界で一番賢明な妻であると信じて疑わず、道化の冠を戴いていることにも気づかずに、優雅に微笑み続けていた。

 

 彼女が信じている「平穏」は、萌という蜘蛛が吐き出した、粘りつくような虚飾の糸。


 その糸に絡め取られていることさえ気づかず、獲物は今日も、自分の正しさを誇りながら、静かに、けれど確実に、食い尽くされる日を待っていた。


 「……さあ、萌さん。お代わりはいかが?」


 早苗の差し出したティーポットの先から、金色の液体が注がれる。

 それは、この家に訪れる破滅までの、最後の一滴だった。


(第12話へ続く)

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