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奈落の計画

佐藤家のリビングで繰り広げられた、あの滑稽な「ティータイム」から二日が経過した。


 五月の柔らかな日差しが降り注ぐ、平日の午後二時。


 早苗は銀行のデスクで、かつてないほど軽やかな手つきで書類を捌いていることだろう。自分が萌という「不良債権」を完璧に管理下に置いたと信じ込み、歪んだ全能感に酔いしれながら。


 だが、その「勝利の余韻」を嘲笑うかのように、隣の栗原家の一室では、昼下がりの静寂を泥靴で踏み荒らすような熱気が渦巻いていた。


 萌の部屋のベッドの上で、優太は大きく息を吐きながら、隣に横たわる萌の白い肩を抱き寄せた。本来なら営業先を回っているはずの時間。銀行の営業車は、少し離れたコインパーキングに身を隠すように停めてある。


「……ねえ、優くん。一昨日の早苗さん、思い出しちゃった」


 萌が、優太の胸元に指先でゆっくりと円を描きながら、クスクスと肩を揺らした。


「ああ。……俺もだよ。最高に傑作だったな。お前をわざわざ家に招いて、ドヤ顔で紅茶なんか淹れちゃってさ。シャツの口紅、あれを『萌の片想いによる自作自演』だと思い込んで、逆に安心してるんだぜ? あのしたり顔、動画で撮ってお前と見返したかったよ」


「本当だよね。お姉さん、銀行員だからかな? 何でも理屈で解決した気になっちゃって。……今この瞬間も、あのお家で『私は勝った』なんて思いながら、眼鏡の奥で数字を追いかけてるのかな。私たちのこと、何も知らないで」


 優太は、萌の言葉に同調して低く笑った。早苗が必死に守り、磨き上げている「佐藤家」という牙城。その城の主であるはずの自分が、こうして平日の真昼間から、彼女が最も軽蔑する不道徳に身を置いている。その「裏切り」の感覚が、優太の卑屈な自尊心をこの上なく満たしていた。




「ねえ、優くん。……もし、お姉さんが本当のことに気づいちゃったら、どうなっちゃうと思う?」




 萌が、試すような、楽しげな瞳で優太を見上げた。

 優太は一瞬、天井を見つめ、鼻で笑った。


「さあな。あいつのことだ、きっと自分の立てた『論理』が崩壊して、再起不能になるんじゃないか? ……いや、プライドの塊だからな。信じていた世界が消えたら、案外ショックでそのままベランダから飛び降りたりして。……自殺しちゃうんじゃないか、あはは!」


 冗談めかして言ったその言葉に、萌の瞳が、どす黒い燐光を放った。


「……自殺。いい響き。ねえ、優くん。だったらさ、今のうちに、お姉さんに高い保険、かけておこうよ」


 優太の身体が、一瞬だけ硬直した。


 だが、萌は逃がさない。彼女は優太の耳元に唇を寄せ、悪魔の囁きのように言葉を続ける。


「お姉さんは完璧なんだから、きっと保険料も滞りなく払ってくれるよ。お姉さんが勝手に絶望して死んじゃった後、萌と優くんが、そのお金で広いお家を建てて、毎日一緒にいられるようになったら……それって、一番素敵な『ハッピーエンド』だと思わない?」





 一線を越える言葉。





 不倫という背徳のさらに先にある、明確な殺意に近い剥き出しの強欲。


 優太は一瞬、早苗の生真面目で清潔な顔を思い浮かべたが、目の前で蕩けるような表情を浮かべる萌の肢体と、自分を全肯定してくれる毒の甘さに、あっさりと屈服した。


「……そうだな。あいつの最後のご奉公だ。受取人を俺にして、特約もガチガチに付けて……。そうしよう、萌。お前の言う通りだ」


「あはっ……優くん、大好き! 本当に最高の旦那様!」


 萌は、歓喜の声を上げて優太に跨った。


 一人の人間の命を、自分たちの快楽のための紙切れに換算する。その決定的な「悪」の共有が、二人の性欲を異常なまでに沸騰させた。


 萌の動きは、先ほどまでとは比較にならないほど激しく、狂気を帯びていく。


 彼女は、この「音」を空っぽの佐藤家へ、そしていずれ帰宅する早苗の記憶へ叩きつけたくてたまらなかった。

自分が今、早苗の夫を完全に支配し、その魂まで汚しているという事実を、物理的な振動として刻み込みたかった。



「ん……っ、ぁあ……ッ! 優くん、すごい……っ! もっと、もっと萌を壊して……ッ!」



 萌は、午後の静寂を切り裂くような大音量で喘ぎ始めた。


 それはもはや快楽の表現ではなく、早苗への完全な勝利宣言であり、彼女の人生を弔うための、呪いのような叫びだった。



「ぁ、あ……っ! はぁ、はぁっ……聞こえる? お姉さん……! 私の声、届いてる……? 貴方の旦那様、こんなに私に夢中だよ……っ!」




 優太もまた、萌の狂気に引きずられるように、昼間の住宅街には場違いな、野太い声を上げた。



「ああ、イク!!イク!!萌、萌、出すぞ!!出すぞ!!」



 佐藤家の壁を突き抜け、静かな街路に響き渡る、淫らで、不気味な音の塊。

 

 早苗が「自作自演の片想い」だと断じ、余裕の笑みで見逃した、その萌の唇。


 今、その唇から放たれているのは、早苗の存在を根底から否定し、その死を祝うための、絶頂の絶叫だった。

 明るい太陽の下、栗原家の寝室からは、いつまでも、いつまでも、止むことのない獣のような喘ぎが漏れ続けていた。



 

 その頃。




 銀行で完璧な仕事をこなし、「今日の夕食は何にしようかしら」と微笑んでいるであろう早苗。

 彼女が信じている「平穏」という名の舞台が、足元から腐り落ち、奈落へと繋がっていることに、彼女はまだ、微塵も気づいていなかった。


(第13話へ続く)

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