保険
「早苗、最近、少し働きすぎじゃないか?」
夕食後のリビングで、優太が不意に投げかけた言葉。それは、髪を切り、狂瀾の夜を越えて「完璧」を目指し直した早苗にとって、最も欲しかった「救い」の響きを持っていた。
早苗の手元では、銀行から持ち帰った資料の束が整然と並んでいる。彼女は眼鏡を押し上げ、夫の顔をまじまじと見つめた。優太の瞳には、これまでにない真剣な、そして自分を慈しむような光が宿っているように見えた。
「……心配してくださっているの?」
「ああ。銀行の仕事も大変だろうし、家でも母さんのことや、あの……萌のことで苦労をかけてる。もし早苗に何かあったら、俺、本当にどうしていいか分からないからさ」
優太はそう言って、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「だから、万が一の備えをしっかりしておこうと思うんだ。お互いに、ちょっといいやつ……保障の厚い生命保険に切り替えておかないか? 俺ももちろん入る。早苗の身に何かあったとき、せめてお金の心配だけはしなくて済むようにしておきたいんだ」
早苗の脳内の「銀行員」としての回路が、この提案を即座に肯定した。
死や病気のリスクを金銭でヘッジすることは、極めて合理的で冷静な判断だ。ましてや、最近の自分の精神的な不安定さを考えれば、保障を厚くすることは「正しい資産管理」の一環に他ならない。
(優太さんは、私を失うことをこれほど恐れてくれている……)
早苗の胸に、熱いものが込み上げた。数日前に感じたあの「不自然な口紅」の違和感さえ、この優しさの前では、萌の幼稚な嫌がらせに彼が巻き込まれただけの些細な出来事に思えてくる。
「次の日曜日、二人でデートがてら、保険の見直し相談に行かないか? 久しぶりに、外で食事でもしてさ」
「……ええ。喜んで。ありがとうございます、優太さん」
日曜日の午後。早苗は、数年ぶりに優太と肩を並べて街を歩いた。
窓口で提示されたのは、死亡保障が極めて手厚い、いわゆる「一等品」の保険プランだった。月々の保険料は決して安くないが、早苗の収入があれば十分に支払える範囲だ。
早苗は、プロとしての厳しい目で契約書の一行一行を確認していく。受取人は、配偶者。特約には、不慮の事故や急死に対する手厚い加算がついている。
「これなら安心だね、早苗」
「そうですね。……私も、これで心置きなくあなたを支えられます」
早苗は、一切の迷いなく、優雅な所作で契約書に署名し、実印を捺した。
それが、自分を「清算」するための地獄への片道切符であるとも知らずに。
しかし、その「蜜月」のような時間は、わずか一日で終わりを告げた。
翌週の月曜日。
早苗が仕事を終えて帰宅すると、玄関には再び、あの見慣れた、けれど吐き気を催すほど忌々しい萌のサンダルが並んでいた。
リビングに入れば、一週間前までの「静寂」など夢だったかのような、地獄の風景が広がっている。
「あら、遅かったじゃない。お腹空いちゃったわよ、早苗さん」
正江が、ソファにどっかと座り、スナック菓子をこぼしながらテレビを見ている。その足元には、萌が持ち込んだであろう派手なファッション雑誌が散乱していた。
「お姉さん、お帰りなさい! 今日は萌、お母様に頼まれて、新しいカーテンを選んであげてたの。お姉さんの趣味とは違うかもしれないけど、優くんは『明るくていい』って言ってくれたよ?」
萌は、当然のように「妻」の領域に踏み込み、早苗が大切にしていたリビングの調度品を、自分勝手な色彩で塗り替えようとしていた。
翌日からも、義母の「嫁いびり」は本格的に再開した。
「早苗さん、今日の煮物は味が薄いわね。銀行員っていうのは、料理の味付けまでケチるのかしら」
「あら、この洗濯物の畳み方……角が立っていて冷たいわね。性格が出るのかしら。萌ちゃんみたいに、もっとふんわりできないの?」
執拗な言葉の暴力。萌は萌で、早苗の帰宅時間に合わせて居間に居座り、優太との「幼馴染の思い出話」を、わざとらしく、親密に語り続ける。
「優くん、覚えてる? 昔、一緒に海に行った時、萌のこと抱っこしてくれたよね」
「ああ、あったなぁ。萌は昔から甘えん坊だったから」
早苗の目の前で、平然と展開される過剰な接触。
銀行での激務を終え、心身ともに疲弊した早苗を待っているのは、休息の場ではなく、精神を少しずつ削り取るための「研磨機」のような空間だった。
家事はすべて早苗がこなし、萌が散らかしたゴミを拾い、義母の罵詈雑言を飲み込む。
一週間前の「平穏」はどこへ行ったのか。
早苗は、キッチンの隅で、震える手で皿を洗っていた。
(大丈夫……。耐えなきゃ。優太さんは、私のために保険を見直してくれた。私の万が一を、あんなに真剣に案じてくれたのだから)
早苗は、その一点の「希望」だけを胸に、暗い水面に浮く木の葉のように必死で踏みとどまっていた。
義母の嫌がらせも、萌の無神経な振る舞いも、優太が自分に向けてくれたあの「慈愛」を信じていれば耐えられる。彼は私の健康を、将来を、命を、何よりも大切に思ってくれているはずなのだから。
だが。
早苗が洗っている皿の向こう側で、リビングのソファに座る優太の視線は、一度も彼女に向けられることはなかった。
優太は萌の耳元で何かを囁き、萌はあざとく首をすくめて、早苗に聞こえないような小声で笑っている。
その光景は、側から見れば、完璧な「一家団欒」の中に、一人だけ不純な「使用人」が混じっているような、残酷な構図だった。
「お姉さん、顔色が悪いですよ? 保険も新しくしたことだし、あんまり無理して死んじゃったら、優くんが悲しんじゃうよ?」
萌の言葉には、あからさまな皮肉と、隠しきれない愉悦が混じっていた。
早苗はそれを「萌なりの不器用な気遣い」だと自分に言い聞かせ、必死に微笑みを返そうとした。
(……私は大丈夫。私は、優太さんに愛されている。私は、守られている)
早苗は、鏡に映る自分の顔を見ないようにして、暗いリビングへと食事を運び続ける。
自分が信じているその「愛」が、自分を効率よく「処理」するための、冷徹な回収計画の一部であるとは夢にも思わずに。
悲劇のヒロインは、自ら選んだ絶望の舞台で、今日も健気に、そして滑稽に、「理想の妻」を演じ続けていた。
(第14話へ続く)




