生贄
早苗が吐き散らしたベッドの汚れを、優太は「俺がやっておくから」と、甲斐甲斐しく片付けた。
本来なら、清潔を何よりも重んじる早苗が自らやるべきことだ。しかし、今の彼女には立ち上がる気力すら残っていなかった。優太が汚れたシーツを剥ぎ取り、慣れない手つきで雑巾を絞る姿を見て、早苗は涙を流した。
「……ごめんなさい、優太さん。私、こんなに醜いところを見せて……」
「いいんだよ、早苗。お前はいつも頑張りすぎなんだ。……ほら、白湯を飲め。少しは落ち着くだろう?」
優太から差し出されたコップ。その温もりが、早苗には聖母の慈愛のように感じられた。
昨夜、あの部屋に漂っていた異様な匂いも、耳の奥に残る不快な喘ぎも、すべては「自分がアルコールに負けたせい」で見た、恐ろしい悪夢として脳の奥底に封印した。そうしなければ、目の前で自分を介抱してくれるこの「優しい夫」を信じることができなくなるからだ。
だが、一階に降りれば、そこには悪夢の続きが待っていた。
「あら、早苗さん。朝から随分な粗相をしたんですってね。優太が大変そうだったわよ。萌ちゃんが気を利かせて、新しいシーツを買ってきてくれるって」
正江が、リビングで萌とカタログを広げながら、勝ち誇ったように告げる。
萌は、昨夜の狂乱など微塵も感じさせない、爽やかな笑顔で早苗を振り返った。
「お姉さん、大丈夫? 萌、お姉さんの好きなラベンダーの香りの洗剤も買ってくるね。……昨日の夜、なんだか部屋が『生臭い』気がしたから、しっかり洗わないとね?」
萌の言葉に、早苗の指先がピクリと跳ねた。
「生臭い」。それは、今朝早苗が感じた、あの得も言われぬ不快な匂いを、萌も知っているという告白に他ならなかった。
(……どうして。どうして、萌さんが私の寝室の匂いを知っているの?)
一瞬、凍りついた思考を、優太の声が強引に溶かした。
「萌、余計なこと言うな。早苗は疲れてるんだ。……さあ、早苗。今日は一日、寝室でゆっくり休んでろ。買い物は萌に任せて、俺が夕食を作るから」
優太の言葉は、一見すると献身的な夫のそれだった。
しかし、それは早苗を二階の「密室」に閉じ込め、自分と萌が下で、あるいは早苗の預かり知らぬ場所で、次の「計画」を練るための隔離に過ぎなかった。
早苗は、従順に頷いた。
今の彼女にとって、夫の指示に従うことだけが、自分が「佐藤家の嫁」として、そして「優太の妻」として存在するための唯一の拠り所だったから。
二階の寝室。
優太が整えたばかりの、けれどどこか「他人の手」が入った違和感のあるベッドで、早苗は横になっていた。
階下からは、三人の笑い声が時折聞こえてくる。
優太、正江、そして萌。
その輪の中に、早苗の居場所はなかった。彼女が「正しい判断」だと思って署名した保険の契約書。それが受理されたという通知が、奇しくもその日の午後に届いた。
(これでいいのよ。私は守られている。万が一のことがあっても、優太さんは困らない。……私に何かあっても、彼は愛するこの家を守っていける)
早苗は、通知書を胸に抱き、自分に言い聞かせた。
だが、その「万が一」という言葉が、今の彼女には、甘美な誘惑のように響き始めていた。
これほどまでにいびられ、蔑まれ、それでもなお「信じたい」という地獄。いっそ、このまま消えてしまえば、優太は自分を「最高の妻だった」と思い出してくれるのではないか。
その時。
部屋のドアが、ノックもなしに静かに開いた。
「……お姉さん、眠ってる?」
萌だった。彼女は買い物袋を抱えたまま、早苗の枕元に歩み寄った。
萌は、早苗の手に握られた保険の通知書をちらりと見ると、口角を吊り上げた。
「……あ、それ。優くんが言ってた『お姉さんへの愛の形』だね。……ねえ、お姉さん。お姉さんって、本当に優くんに愛されてるんだね。萌、羨ましくなっちゃう」
「……萌さん。わざわざ、ありがとう。……そうね。優太さんには、感謝しているわ」
早苗は、精一杯のプライドを込めて微笑んだ。
だが、萌はその顔を覗き込むようにして、さらに声を低めた。
「ねえ、お姉さん。萌、知ってるんだよ。……お姉さん、最近、夜中に変な声が聞こえるって悩んでたでしょ? それ、萌も聞いたよ。……お姉さんが寝てる横で、優くんが萌の名を呼びながら、ずっと泣いてたの」
「…………え?」
早苗の思考が、真っ白に塗りつぶされた。
何を言っているのか。萌は、何を告白しているのか。
「優くんね、言ってたよ。『早苗の正しさが、俺を殺すんだ』って。『萌の淫らな体がないと、俺はもう生きていけない』って。……昨日の夜も、お姉さんの隣で、優くん、萌を抱きながらずっと震えてたんだよ?」
「やめて……。やめて……っ!!」
早苗は、耳を塞いで叫んだ。
だが、萌は止まらない。彼女は早苗の耳元に唇を寄せ、とどめを刺した。
「……お姉さんが早く死んでくれれば、優くんは自由になれるのにね。……大丈夫、お姉さん。お姉さんがいなくなった後も、その保険金で、萌が優くんを一生幸せにしてあげるから」
萌は、そう言い残すと、軽やかな足取りで部屋を出て行った。
一人残された早苗は、暗闇の中で、震えが止まらなかった。
信じたい。信じなければならない。
だが、萌の言葉は、今朝のあの「匂い」と、シーツの「乱れ」と、あまりにも完璧に合致してしまった。
(嘘よ。嘘に決まってるわ。優太さんは、私を愛している。私に水を、持ってきてくれた……)
早苗は、先ほど優太が持ってきたコップに残った、冷め切った水を飲み干した。
その水が、どんな味がしたのか。
もはや彼女の舌は、何も感じなくなっていた。
悲劇のヒロインは、自ら飲んだ「信頼」という名の毒に冒され、静かに、けれど確実に、死を待つ生け贄へと変貌していった。
(第16話へ続く)




