喪失
ヒュルケは瞳を開き、ゆっくりと上体を起こした。見慣れた天蓋付きのベッドに、豪華な家具たち。目覚めた場所が公爵邸の自室であることが分かり、溜息を一つついて立ち上がった。
やはり、エルディの姿がどこにも無い。
室内はシンと静まり返っていて、まるで自分一人が世界中から置き去りにでもされているような感覚に陥った。
物語へと入る直前で時が止まっていたかの様で、たった一人で散乱している本を拾い上げていくうちに、ポタリと涙が零れ落ちた。手の甲で擦りつけたが止まらず、ヒュルケはその場に蹲った。
——もう二度と、エルディに逢う事はできないのね? お別れくらい、言わせてくれたって良いのではなくて? こんなの、あんまりですわ……。
気が付けば、いつでもエルディは側に居てくれた。うんざりした表情を浮かべ、冷静に淡々とヒュルケの側に仕えてくれたのは、エルディだけだった。サルメライネン公爵家令嬢という肩書を盾に、理不尽な扱いをしようともめげなかったのはエルディだけだったのだから。
『一介の使用人風情が私に刃向かう事は許さなくてよ!? 貴方の代わりなんていくらでもいるということを解っていて!?』
『私の代わりなんて居ません。お嬢様の相手は骨が折れます。誰が好き好んで従事するとお思いですか? それに、そのような性格だからこそフラれるのでしょう』
物語の世界に入る前に、エルディと言い合った言葉を思い出し、ヒュルケは哀しみのあまり心が押しつぶされそうになった。
——エルディの言う通りですわ。彼の代わりなんかどこにも居ませんもの。そんな風に人を大事にできない私が、人から大事にされるはずなんて無かったのだわ。
「どうして、もっと大事に出来なかったのかしら……!」
シンと静まり返った室内には、ヒュルケの嗚咽だけが響いていた。サルメライネン公爵家の使用人達は、エルディ以外誰もヒュルケの部屋に近づこうとはしないからだ。
ところが部屋をノックする音が聞こえ、ヒュルケは咄嗟に「エルディ!?」と、声を掛けながら顔を上げた。
「……いえ、あの……」
扉の外で従者の戸惑う声が聞こえた。ヒュルケは溜息をつき、涙を拭いて声を掛けた。
「何か用かしら?」
「アレクシス第一王子殿下が、お嬢様にお逢いしたいと急にいらっしゃいまして……」
「殿下が?」
——エルディを失って、更に婚約破棄だなんて。泣きっ面に蜂とはこのことですわね。
「……分かりましたわ。すぐに参ります」
ヒュルケの答えに、扉の外に居る従者はホッとした様にため息を吐いて去って行った。いつもはこういった役目も全て、ヒュルケの専属執事であるエルディが担っていたのだ。従者が来たということは、この邸宅の中にエルディの姿が無いということなのだろう。
込み上げる寂しさを噛み殺す様にきゅっと口を真一文字に結び、歯を噛みしめると、ヒュルケは覚悟を決めてアレクシスと会うべく廊下へと出た。
すれ違う使用人達が会釈をする中、ヒュルケは公爵令嬢らしく堂々と背筋を伸ばして歩いた。アレクシスからの婚約破棄の噂を聞けば、恐らく使用人達はこぞって『あの性格のお嬢様であれば当然だろう』と言い合う事だろう。公爵家に仕えるということを誇りとしている者達は辞めていくに違いない。
——当然ですわよね。私は今まで『思いやり』の欠片もない態度ばかりを取って来たのだもの。一体どうしてなのか自分でも良くわからないわ。以前は皆を家族の様に大切に思っていたというのに。
ヒュルケは背筋を伸ばしながらも、心の中では居た堪れない気持ちでいっぱいだった。今まで自分が他人に対してどれほどに非情な態度をとってきたか、思い出すだけで心が痛い。エルディと共に物語の中を旅していくうちに取り戻した『思いやり』の気持ちに、押しつぶされてしまいそうな程に息苦しくて堪らなかった。
アレクシスが待つ客間の扉が嫌に重厚に見えた。呼吸を整える前に使用人がその扉をノックして押し開いたので、ヒュルケは少し戸惑った顔のままアレクシスと対面する事となってしまった。
「殿下、わざわざご足労頂きまして……」
慌てて膝を折ってお辞儀をしようとした矢先、「ヒュルケ!!」と、アレクシスの妙に感極まった声が掛けられた為、下げかけた頭を直ぐに上げてしまった。
アレクシスは居ても立っても居られないといった様子でヒュルケの元へと駆けつけると、その前に立ってスカイブルーの瞳で見つめた。
心なしか瞳が潤んでいる様にも見える。
そして突如ヒュルケの前に跪き、優しくその手を取った。ふわりと癖毛の金髪が揺れる。
「どうか、貴方に婚約破棄を言い渡した私を、赦して頂きたいのです」
アレクシスのその言葉に、ヒュルケは我が耳を疑って絶句した後、小さく零れる様に「え?」と呟いた。
「あれは私の意思ではありません。私は貴方を愛しているのですから」
懇願するようにスカイブルーの瞳を向けるアレクシスを見つめながら、ヒュルケは困惑した。
——わ、私を『愛している』ですって!?
「あわ……あわわわ……」
声にならない声を発したヒュルケに、アレクシスは申し訳なさそうに笑みを向けた。
「不躾に失礼致しました。気持ちが急いでしまいまして。こちらへ向かう馬車の中でも落ち着かず、御者を余りに急かし過ぎた為、馬をバテさせてしまいました」
アレクシスはヒュルケをエスコートし、応接間のソファへと座らせると、自分もその前のソファへと腰かけた。公爵家の使用人達が淹れたてのお茶を用意してくれたが、ヒュルケは動揺を隠せずティーカップを持つ手が震えた。
「あの、私。殿下からすっかり嫌われてしまっていると思っておりましたのに」
「誤解があったのです。私にも何が何やら……。信じて頂けないかもしれませんが、貴方に関する記憶が頭の中からスッポリと消えてでも居た様な」
アレクシスの言葉を聞いて、ヒュルケは困惑しながら頷いた。
「……私もですわ。殿下との思い出をずっと忘れておりましたの。あんな、素敵な思い出でしたのに」
アレクシスは優しい笑みを浮かべると、ゆっくりと詩を朗読するかのように言った。
「あの日、王城の庭園で貴方と出会った素晴らしい思い出を忘れるなど、私はどうかしていたのです。幼少の頃でありながら、貴方は思いやりの塊の様な方でした。ご自分のお気持ちよりも、お父上の哀しみをご理解されていた……」
「私こそ、殿下から頂いた薬の入っていたシルバーの容器を、大切に仕舞っていたというのに、そのことすらも忘れていたのですもの」
ヒュルケは唇を噛みしめた。何故そんな大事な事を忘れてしまっていたのだろうか。自分にとっては幼少期に経験した最も印象の強い出来事であったはずだ。それと共に、思いやりの心をも失ってしまっていた気さえする。
だが、過ぎてしまった時間を取り戻す事などできない。過ちを受け入れて、二度と同じ事をしない様にと前に進む道しか残されていないのだから。
「……もう一度、私にチャンスを頂けませんか?」
「え?」
アレクシスは懇願する様にスカイブルーの瞳を向けた。
「私が出した婚約破棄の申請を棄却していただけるよう、父王をどうにか説得します。過ちを簡単に消し去ることなどできない事は承知ですが、それでもこの気持ちを諦めきれるはずがありません」
「ですが、どうやって?」
「皆を納得させる為には、私達が互いに想い合っている事を示す必要があるでしょう」
アレクシスの指示で、側に居た従者がヒュルケへとトレイに乗せた書簡を差し出した。王室の封蠟で封印されたそれを手に取ったヒュルケに、アレクシスはすかさず「王室主催の舞踏会への招待状です」と言った。
ヒュルケは俯いたまま押し黙った。紅茶が美しい模様が描かれたティーカップの中で光を反射している。
「殿下、眉毛……ヘリヤさんの事はどうなさるおつもりですの?」
ヒュルケの問いかけに、アレクシスは意外そうな顔を向けた。
「『どうなさる』とは? もしや、ヘリヤ嬢がどのような方かご存じなかったのですか?」
ヒュルケはハッとしてアレクシスを見つめた。アレクシスの言い方からすれば、ヘリヤの地位は誰もが知るものなのだろう。それをヒュルケが知らないということは、よほどアレクシスに興味が無かったということになる。
アレクシスは寂しげに整った顔に笑みを浮かべたが、彼が傷ついた様子はヒュルケにも理解出来た。
「……ヘリヤ嬢は、神殿から遣わされた私の教師です。枢機卿の養子である彼女は若いながらも信仰に熱心で、お歳を召した枢機卿の代役として王城に仕えているのです」
通常であれば枢機卿の下位に当たる者が王家の教師を務める事になるだろう。恐らくヘリヤもエルディと同様に、魔法によりその地位を確保していたのだろう。
「もしや、私と彼女の仲を疑っておいでだったのですか?」
「違いますわ!」
——本当に妬いておりませんでしたしっ!
ヒュルケの全否定の反応に、アレクシスは困った様に苦笑いを浮かべた。
「少しくらいは疑って欲しかったのですが」
「え!」
アレクシスの言葉にヒュルケはシーグリーンの瞳を見開き、頬を染めた。その可愛らしい表情に、アレクシスがふっと笑った。
「愚かなのは私だけの様です。貴方があの若い執事と恋仲であるという噂を聞き、ずっと腹を立てていたのですから」
「エルディと!? そんな噂が立っていたの!?」
執事の役職とは、下積みを積み重ねてやっとのことで就く事ができる職位だ。それを、エルディは実年齢こそ不祥であるものの、見た目には二十代前半程度であり、周囲が息を呑む程の端麗な男であった為、社交界では専らヒュルケの恋人であると噂されていたのだ。
しかし、当の本人の耳には入って来なかった。それは、ヒュルケが社交の場に顔を出す事を好まなかった事と、彼女の我儘な性格と権力により、周囲が彼女に伝える様な真似をしなかったからだ。
「……彼とは、そんな関係ではありませんわ」
ヒュルケの言葉を聞き、アレクシスはあからさまにホッとした様に眉を下げた。それほどに二人の噂話は真実であるかのように語られていたのだ。
もしも記憶を無くしていなければ、そのような誤解も早々に解けていたことだろう。
「記憶を無くすということは、恐ろしい事です。私が私ではなくなってしまうということなのですから。ただ、まだ思い出せない部分も多くあるのです。思い出そうとすると頭に靄がかかったようにぼやけて、苛立ちを覚えます」
アレクシスは悔し気にそう言った後、慌ただしく席を立った。急な来訪に長居するわけにはいかないと思ったのだろう。「舞踏会で貴方とお会いできる事を楽しみにしています」と言い残して名残惜しそうに王城へと帰って行った。




