プロポーズ大作戦
ヒュルケが目を覚ますと、ベルの父親の家に戻っている事に気が付いた。ベルの父親は病気もどこへやら、一瞬のうちに元気になって娘の帰りを喜んだ。
——こうも喜ばれると悪い気はしませんわね。
そう考えた後、ヒュルケは小さくため息を洩らした。
——野獣の元に帰りたくありませんわ。エルディが現れないということは、眉毛さんも現れないのでしょう? でも私、例え物語の中とはいえアレクシス王子のそっくりさんにプロポーズするだなんてできませんもの……。
ヒュルケは約束の一週間を超えても野獣が待つ城へは戻らなかった。物語上、姉達から帰る事を邪魔されはしたが、ヒュルケの意思で帰る事を拒んでいたのだ。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、三週間が過ぎていく。物語上では十日のはずだというのに、ヒュルケの気持ちはどんどん野獣の居る城から遠ざかっていった。
ひと月が過ぎようとしていた頃、ヒュルケは夢を見た。野獣が運河の側で大きな身体を横たえている様子を、だ。目を覚まし、自分がとんでも無い事をしている罪悪感に苛まれた。
——このままでは、彼が死んでしまうわ……!
ヒュルケは、急ぎ野獣の元へ戻らなければと魔法の指輪を机の上に置いた。その瞬間ふっと眠りにつき、目が覚めるとそこは野獣の城であることに気が付いた。
◇◇
——お嬢様が戻って来ない……。
エルディ野獣は待ちぼうけを食らいながら、悲しそうに運河の畔に座っていた。揺らめく水面に映し出された野獣の姿に、もう何度ため息をついた事か知れない。
——おかしい。物語上、ベルが父親の家に戻るのは十日間ではないのか!? 何故ひと月以上も待たせる!? もしや野獣の正体が私であると気づいて、例え物語の中であるとはいえ私と結婚などしたくないとでも思ったのか!?
私は、彼女にそれほどまでにも嫌われているのか!? 一体何故!?
エルディ野獣は角の生えた頭を両手で掴み、ゆさゆさと揺さぶった。
——いや、まさか! あの感の悪いお嬢様が野獣の正体に気づくはずがない。考えすぎだ、エルディ・アロ・アフリマン。落ち着くのだ……。
そう自分に言い聞かせて、エルディ野獣は深いため息を洩らした。野獣の巨大な牙の間から抜けるため息は、ばひゅう……と大きく醜い音を発する。その音を自分の耳で聞き、うんざりとして項垂れた。
いい加減もうこの姿にはうんざりだった。直ぐにでもヒュルケを迎えに行ってしまいたいところだが、この姿で街へ降りようものなら大騒ぎを起こしてしまう。だからといって物語の設定上自分の姿を変える魔法を掛けるわけにもいかず、八方ふさがりでこうしてただ阿呆の様にヒュルケの帰りを待つしか無いのだから。
「野獣さん……」
ヒュルケの声に驚いてエルディ野獣が振り向くと、瞳に涙を沢山溜めたヒュルケが立っていて、エルディ野獣は慌てて立ち上がった。
「ど、どうなさったのですか!? 誰かに虐められでもしたのですか!?」
「そうではありませんわ! 私、貴方に酷い事を……。こんなに待たせてしまうだなんて! もしかしたらもう死んでしまっているのではと心配して……」
ヒュルケはエルディ野獣の元気な様子に、「あら?」と小首を傾げた。
「思ったより全然ぴんぴんしておいでですのね?」
エルディ野獣はハッとして、慌てて弱ったふりをし、運河の畔に身体を横たえた。
「いえ!? 今にも死にそうですが!?」
「嘘おっしゃいっ!」
ヒュルケがエルディ野獣を小突くと、その怪力でエルディ野獣は運河の中へとボチャリと突き落とされた。毛むくじゃらの身体が水を吸ってぺったりとし、エルディ野獣は運河の中で恨みがましそうにヒュルケを見つめた。
「あ、あら!? 思ったより力が入ってしまいましたわ!?」
「相変わらず怪力ですね……」
「わざとでは無くてよ!?」
「ほう?」
ヒュルケがエルディ野獣に向かってすまなそうに手を伸ばし、運河から助け出そうとしたので、エルディ野獣は逆にぐいと引き、ヒュルケを運河の中へと引き落とした。
「きゃあっ!! 何をなさるんですの!?」
「お返しです」
「乙女を水の中に落とすだなんて、あんまりですわ! 私、泳げなくってよ!? 溺れ死んでしまいますわっ!!」
「……脚が届いているではありませんか」
「……あら?」
しっかりと両足で運河の中に立っている事に気づき、ヒュルケは顔を赤らめてエルディ野獣を見つめた。ずぶぬれのエルディ野獣のぺったりとした姿に、思わず吹き出す。
「貴方、ふわふわしていると思ったら、思ったより痩せっぽちですのね!」
「失礼な。スマートと言ってください。これでもそれなりに鍛えているのですから」
「鍛えている方が、私が小突いた程度で河に落っこちたりするかしら?」
「いい加減ご自分が怪力である事をご自覚ください」
エルディ野獣の言葉に、ふとヒュルケは不思議に思った。
——おかしいですわ。どうして彼は私が怪力だと知っていたのかしら……?
その時、ヒュルケの脳裏に野獣の立ち振る舞いが浮かんだ。いつも紳士的で優しく、ヒュルケを労わる様な眼差しを向けてくれる彼の様子を思い浮かべて、その姿が灰色の髪に、銀色の瞳をした男と重なった。
——まさか、エルディ。貴方が現れないのは……。
大きな獣の手で長い鬣を掻き分けて後ろへと追いやるエルディ野獣を、ヒュルケはじっと見つめた。エルディ野獣はその視線に気づき、獣の太い眉を顰めた。
「……なんです? まだ私を痩せっぽちだと貶すおつもりですか?」
「そうですわね……」
「心外です」
『偽りを見抜く方法をお教え致しましょう』
夜空を散歩した日の夜、エルディが言った言葉がヒュルケの脳裏に浮かび上がった。
『瞳だけは偽る事はできないのです。例えどんなにか姿を変えようとも』
ヒュルケはエルディ野獣の側へと近づくと、じっと見上げた。野獣と化した巨体の彼にぴったりと寄り添い、背伸びをし、大きな獣の顔の両頬を手で掴んだ。
——ああ、私ったら。なんて馬鹿なのかしら。今の今まで気づかなかっただなんて……。
エルディ野獣の『銀色の瞳』を見つめながら、ヒュルケは僅かに微笑んだ。
心の中にじわりじわりと染み渡る様に想いが広がる。この想いが何なのか、数々の物語を通じて学び、知っている。
だからこそ、思うのだ。
——例え物語の中だとしても、私は愛する人からの求婚を受けたいわ。
「野獣さん。毎日の様に言ってくださっていた求婚の言葉を、もう一度くださらないかしら?」
エルディ野獣は何故このタイミングでそんな事を言わせるのだろうか、と僅かに躊躇った。『美女と野獣』の物語上では、ベルの方から求婚するはずなのだ。
ヒュルケを見下ろすと、彼女はシーグリーンの瞳で、まるで愛しい者を見つめるかのような眼差しを向けている。
河の水でずぶぬれとなった金色の髪から水滴が滴り落ち、形の良い額をつっと伝っていく。
余りにも美しい彼女のその様子に見惚れながら、丁寧に、ヒュルケの事を想い、その狂おしい程の気持ちを込めて言葉を吐いた。
「……ヒュルケ。どうか私の妻になってください」
エルディ野獣のその言葉に、ヒュルケは確信した。
——ああ、やっぱりだわ。この物語の中で、私の名を知っているのは、エルディだけだもの!
私の父が、私の為に愛情を込めて名付けてくれた、大切な名前。
「ええ。勿論よ! 私、貴方とずっと一緒に居たいのだもの!」
ヒュルケはぐっと背伸びをし、エルディ野獣の唇にキスをした。
柔らかな彼女の唇の感触を受け茫然としたのも束の間、野獣に掛けられた呪いが解け、ぶわりと風が沸き起こった。毛むくじゃらの身体がみるみる人へと戻って行く。
エルディは『まずい!』と、冷や汗を掻いた。
——完全に油断をしていた! 元の姿に戻ったのなら、アレクシス王子ではないと知り、お嬢様は泣き出してしまうことだろう……!! ファーストキスの相手が私だと知って泣き崩れる彼女の姿など見たくはない!! ならば……
エルディは咄嗟に魔法を唱えた。野獣の姿から、緩やかな癖毛の金髪にスカイブルーの瞳をしたアレクシス王子の姿へと変わり、ヒュルケの前で何事も無かったかの様に微笑んでみせた。
彼女はきっと喜んでくれるだろう。愛しいアレクシス王子とよく似た男であるとはいえ、結ばれる願いが叶ったのだから。
しかし、その姿を見たヒュルケはシーグリーンの瞳を見開き、困惑した様に呟いた。
「……そんな……」
驚愕の表情を浮かべるヒュルケを見つめ、エルディは「え……?」と、小さく声を発した。
「私……」
ヒュルケがぱしゃりと水の中に座り込むと、その瞳から涙が零れ落ち、運河の中へと吸い込まれた。エルディはアレクシス王子の顔のまま眉を寄せ、一体どうしてヒュルケは泣いているのだろうと困惑した。
パッと辺り一面が光に包まれた。ヒュルケは涙を零しながら、唇を噛みしめた。ズキズキと痛む胸を押えても、その痛みは治まるどころか増していく一方だった。
考えても考えても、何故エルディが最期まで姿を現さなかったのかが分からなかった。そしてフト、絶望の感情が胸を貫くかの様に突き刺さった。
——エルディはもう、私の事を必要ではなくなってしまったのね。『恋愛』が何なのかが分かったから、封印が解けて彼は知らぬ間にこの物語の世界から抜け出していたのだわ……。
眩い光が包み込み、すぅっと消えていった。




