09 どうやら満足したらしい
どうしてこんなことになったのか。
もとを辿れば、軽率な気持ちで夫を誘ったエウレカが悪いのかもしれない。しかし、そこへ妙に強火なアイザックの愛情やら、変な適応能力を見せる母ユリーナなどが混じって、疲労度は極めて高い。
「叙勲を受けたのか。国王陛下から?」
「はい。私のような者が表彰されるのは恐れ多いことですが、これもすべて支えてくれた妻のおかげです」
よくそんな綺麗事を並べられる。
照れたように笑う夫からエウレカは目を逸らした。
叙勲式に両親を呼ばなくて良かった。
どのみち離縁する可能性もあったし、アルキメデスから申し出もなかったので、エウレカは彼が英雄として国王から称賛の言葉を受けたとは伝えていなかった。共に喜んでくれるとも思っていないから。
「お前は頭でも打ったんじゃないか?忘れたとは言わせないが、五年前に妹を置いて戦地へ発った罪は軽くないぞ」
「もちろんです。エウレカには悪いことをしました」
「どうせ愛人でも囲ってよろしくしてたんだろう。その顔で英雄なら馬鹿な女は寄って来る」
「お兄様、それぐらいにしてください」
エウレカは口元をナプキンで拭って、兄の軽口に釘を刺す。
アルキメデスはやはり気分を害した様子はなく、ニコニコとエウレカの隣に座っていた。少なくとも五年前の彼であれば、ここでアイザックを斬り殺していても不思議ではない。
「エウレカより美しい女性はいませんよ。彼女は聡明で、妻としてこれ以上良い人はいない」
「ははっ、笑わせるなよ。集めた勲章の一つぐらいにしか思っていないんだろう」
「そんなことはありません」
ムッとした顔で言い返すアルキメデスを兄が睨み返す。エウレカが止めないのは、自分も彼と同じ意見だから。
夫にとって、エウレカは彼が手に入れたものの一つ程度にしか思われていないのかもしれない。白い結婚とはつまり、肉体関係のない結婚。己の欲は他所で発散して、妻は家に縛り付けておくのだ。
まるで、壁から離れることのできない絵のように。
他者へ誇示するだけの「お飾りの妻」として。
「愛しています、本当に」
静かな声音にエウレカは我に返った。
いつの間にかテーブルの上の皿は下げられており、ほろ酔いの顔をした両親の前にデザートが運ばれていく。切り分けられた白桃は瑞々しい輝きを放っているが、時間が経てば変色し始めるだろう。
「エウレカを一人の女性として愛している。だから、戦地には連れて行かなかった」
彼が口にしたいくつかの上辺だけの言葉のうち、これだけは真実味を帯びていて、だからうっかりエウレカは信じそうになった。
あぁ、そんな事情があったのね。
それならば貴方も辛かったでしょう。
そんな優しさを見せそうになって、踏み止まる。
いったい何度同じ目に遭えば自分は学ぶのだろう。彼は正常ではない。正常ではない男が吐く甘い言葉は、つまり責任を伴わない嘘だ。
「もう結構よ、帰りましょう」
「おいおい、お前だけでも泊まっていけよ!」
「また近いうちに連絡しますから、お父様とお母様もどうかお元気で」
エウレカは立ち上がって頭を下げる。
ゴネるアイザックに手を振って、足早に玄関から外へと出た。夏の夜空は賑やかな星たちが散らばっていて、宝石箱をひっくり返したみたいだ。
馬車が走り出すまでにそう時間は掛からなかった。兄はまだまだ話したいことがあったようだが、彼の話を最後まで聞いていたらきっと朝が来る。
「私を同行させてくれてありがとう」
律儀に伝えられた謝礼の言葉に、エウレカは静かに首を振る。窓の外はもう暗い。
「五年ぶりに戻った夫を置いて行くわけにいかないでしょう。私にだって立場がありますから」
「だけど私は嬉しかった。君の家族は素敵だな」
「随分と幸せな目をしてるのね」
単純な嫌味だったが、アルキメデスは「ああ」と頷いた。
「私は幸せ者なんだ。君を一日中見つめることができる唯一の男だから」
エウレカは外の景色から目を離して、夫の方を振り返った。灰色の目は至極真面目で、尚更胸が苦しくなる。
どうしてそんなことを言えるのだろう。
彼は、私を捨てて行ったのに。
「何にせよ、早く元の貴方に戻れば良いですね。このままだと息が詰まりそうです」
「私の好意は迷惑か?」
「……分かりません」
正直なところ、本心だった。
冷遇されていた夫からの人が変わったような溺愛は心臓に悪い。頭の切り替えは上手くいかず、ときどき騙されそうになってしまう。
迷惑か、と聞かれれば答えに窮する。
一心に向けられる愛情を心地良く感じている自分もいるような気がした。他の妻が当然のように受け取っている愛を、自分も得られた気がして。
「どうかしてるわ……私までおかしくなりそう」
「そんな君も見てみたい」
伸びて来た手を振り解く力が出なかった。
腕を引かれて、エウレカの頬にアルキメデスの手が触れる。夫の手のひらがこんなに大きいなんて知らなかった。どうして今まで、教えてくれなかったのだろう。
「エウレカ、目を閉じて」
言われるがままに瞳を閉じる。
五年ぶりの口付けはひどく苦く感じた。




