10 どうやら向き合うらしい
ルーヴェン伯爵家での食事以降、アルキメデスは誰の目から見ても明らかに機嫌が良い。エウレカは相変わらず夫に振り回されながら、頭を悩ませていた。
「もうすぐアルキメデス様が戻られて一週間になりますね。いつ戦地へ戻ってしまうか、若奥様も気が気ではないのでは……?」
心配そうに尋ねるアリーシャに、エウレカはぼんやりと目を向けた。
そういえば、もう一週間が経つ。
色々なことがあったので気持ち的にはもっと長い時間が過ぎたようだ。叙勲式から始まってタランタの訪問と、毎日顔を合わせるから夫の顔もすっかり覚えてしまった。
「彼はまたどこかへ行くの?」
エウレカの質問にアリーシャは首を傾げる。
「どうでしょう……私の感覚ではこれまで長年軍人として仕事に囚われて生きて来たので、半年ほどは休暇を与えるべきだと思いますけれど……」
そればかりは上長や組織の判断ですよね、と肩を落とすので、エウレカは黙って頷いた。
アルキメデスは軍人なのだ。
戦地でこそ彼の実力は発揮され、正しい評価を受ける。このまま王都ガナルでのんびりと暮らすなんて、きっと望んでいないだろう。魚を陸で散歩させるようなもの。
「……私たちはどうすれば良いのかしら」
ぽつりと不安が溢れて、アリーシャが振り返った。
「え?」
「何でもないわ。独り言よ」
すぐに手を振ってエウレカは立ち上がる。
夏の夜風が部屋を通り抜けて行った。
アルキメデスはエウレカに何を求めているのか?
脳の機能障害は随分と復旧に時間が掛かっているようで、まだ彼は自分を愛妻家だと思い込んでいる。戦地で剣を振るって銃を担ぐ夫が、妻の機嫌を熱心にとる様は人の目にどう映るのだろう。
例えば、オルガノ伯爵夫妻が望むようにアルキメデスとエウレカの間に子ができたとして。
その先に何があるのか分からない。
隣に夫がいるのかさえ。
「アルキメデスの部屋へ行くわ」
一つに束ねていた髪を解いてそう言うと、アリーシャは驚いた様子で目を見開いた。
「あ、それでしたら、もう少し香油を……!」
「話をするだけよ。準備は要らないから」
「ですけれど、」
何か言いたい顔でこちらを見つめるメイドに、エウレカはふっと微笑んだ。
「期待をさせてごめんなさい。みんなが私に何を求めているか分かっているのに、私は気付かないフリを続けているの。嫌な女でしょう?」
ブンブンとアリーシャは大きく首を振る。
そんな優しさがエウレカは好きだった。
「意地を張らないで、受け入れるべきなのよね。この結婚は自分の手でどうこうなる問題ではないし、私はオルガノ小伯爵の妻なんだから」
「若奥様のお気持ちも分かります。まずはしっかりと、積もる思いを打ち明けてみてはいかがでしょう?」
「思いを……?」
「アルキメデス様はああ見えて不器用なのかもしれません。お二人の溝を埋めるために……向き合う時間が必要かと」
言葉を選びながら伝えてくれたことを、エウレカは自分の頭の中で噛み砕く。
何を話しても無駄だと思っていたけれど、それは自分の勘違いなのだろうか。恨みや憎しみがずっとしこりのように消えないのは、相手に気持ちを伝えていないから?
エウレカはアリーシャにもう一度礼を伝えて、足早にアルキメデスの部屋へと向かった。
「どうしたんだ、こんな時間に……」
戸惑いの表情を見せながらも、夫は自室に招き入れてくれた。
アルキメデスの寝室に入るのは三度目だ。
つい先日も話があると言われて案内されたのがこの場所だった。そして、初めて訪れたのは、忘れることもない五年前の挙式の日。
(……あの時と部屋の様子は変わらないのね)
生活感のない部屋の中には、彼が持ち帰った少ない荷物があるだけ。好みが分かるような本棚もなければ、実用性のない置き物もない。
全てが必要だから彼と共にある。
だから、エウレカは置いて行かれた。
「貴方のことを恨んでいます」
小さな声で伝えると、アルキメデスは驚いたように目を見開いた。しかしすぐに、堪えるように唇を引き結ぶ。
「置き去りにされた者の気持ちを考えたことがありますか?いつ戻るか分からない相手を想って、枕を濡らしたことは……?」
「エウレカ、」
「自分でも分からないのです。謝って欲しいわけではありません。上辺の言葉を聞きたいわけでもない。ただ、私は……」
揺れる灰色の目を見つめる。
いざ、言葉にするとなると緊張した。
「約束が欲しいのです」
「約束……?」
復唱するアルキメデスに頷く。
「はい。貴方がもう私を置いて行かないと、どうか今ここで誓ってください」
詰め寄ると、夫は狼狽えたように後退する。それでもエウレカは諦めずに白いシャツを掴んで縋った。
「お願い、アルキメデス……一人にしないで」
溢れる涙が頬を伝って落ちて行く。
その夜、珍しくアルキメデスは饒舌ではなく、ぎこちなく自分を包む二本の腕の中でエウレカは深い眠りに落ちた。




