11 どうやら誘いたいらしい
わずかなカーテンの隙間から差し込む光でエウレカは目を覚ました。
瞼を開けてすぐに周囲を見渡す。
見慣れた顔はそこにはなく、不安になった。
「アルキメデス……!」
名前を呼びながらベッドから降りる。シーツの皺からして、彼がここで眠ったことは間違いないだろう。ともすれば、いったいどこへ行ったのか。
きょろきょろと歩き回っていたら、背後で部屋の扉が開く音がした。驚いて振り返ったエウレカの視線の先で、夫は目を丸くする。
「どうしてそんな顔をするんだ?」
「……貴方がまた、どこかへ行ったのかと」
「君の朝食を用意してきた。疲れているみたいだから、今日はここで食べると良い」
「ありがとう……」
エウレカは素直に頷いて、アルキメデスの隣に腰掛けた。まじまじとその顔を見て、色濃いクマが浮かんでいることに気付く。
「もしかして、眠れなかったの?」
質問を受けてアルキメデスは苦笑した。
「寝ている間に私が君を押し潰してしまったら申し訳ない。それに、そんなに薄着で男の部屋を訪れるべきじゃない」
目のやり場に困るから、と言い添えて顔を背ける夫に、エウレカは自分の格好を見下ろした。
薄いピンク色のサテン地のナイトドレスは、なにも夫のために買い揃えたのではなく、普段からエウレカが着ている寝着だ。
「薄着ではありません。寒くないもの」
「そういう問題じゃないんだよ」
呆れたように渡されたのは彼のシャツだったが、どうも納得がいかない。眉を寄せるエウレカを見てもう一度笑うと、アルキメデスは口を開いた。
「今日は国王陛下に謁見する予定がある。少し長い話になるかもしれないから、夕食はみんなと一緒に先に済ませてくれ」
「分かりました。どんな話を……?」
静かな問い掛けに夫は俯く。
エウレカの頭に、アリーシャが言っていたことが思い返された。彼は軍人だ。いつまた、どこか遠いところへ旅立ってしまうか分からない。
(それを支えるのが良き妻なのね)
行ってらっしゃい、気を付けて。
いったい何度そうやって送り出すのだろう。
漠然とした不安を抱えたまま、また過ごすことになる数ヶ月もしくは数年を、エウレカは耐えられるのだろうか。
「いいえ……知る必要はないです。英雄になった貴方をこの場所に足止めすることはできないから」
「すまない、」
謝らないでほしい。
そうやって申し訳なさそうな顔をするたびに、惨めになる。今この会話が成り立っているのは、彼の頭が正常ではないため。
アルキメデスがまともであれば、彼はきっと帰還してすぐにまた違う戦地へ飛んで行っただろう。羽を休める間もなく、妻の話には耳も貸さずに。
下を向くエウレカの背中を、大きな手が撫でた。
顔を上げて、灰色の瞳を覗き込む。
「エウレカ、今日も一緒に眠って良いか?」
子供が大人にお伺いを立てるように、夫は言いにくそうに提案した。
「私を潰さないように配慮するのは大変では?」
「そうなんだが……」
「疲れが取れないでしょう。昨日は意図せず寝落ちしてしまっただけです。お気になさらず」
「いや、私たちは夫婦なので……その……」
困ったように頬を掻くアルキメデスの表情を見て、エウレカは夫が何を言わんとしているか悟った。
つまり彼は、初夜のやり直しを希望している。
驚くべきことに五年越しに。
「気持ちが進まないなら構わない。君が嫌がることはしたくない。急ぐことではないから」
項垂れる彼を励ましたくなるのは変だ。
二人は白い結婚で結ばれた夫婦であって、愛し合う必要なんてない。言い出したのはアルキメデスの方なんだから、今更妻を抱こうとするなんて都合が良い話。
そうだと、思うけれど。
「帰ってきた貴方を見て決めます。だからどうか、無事に戻って来てください」
言い終わる前にアルキメデスはぴょんと飛び起きてエウレカを抱き締めた。「ありがとう」と何度も嬉しそうに告げて部屋を出て行く夫を、目を細めて送り出す。
まるで、本当に夫婦のようだ。
心のうちで思ってエウレカは小さく笑った。
◇◇◇
「え……アルキメデス様が悪酔いを?」
夕食を終えて夫の寝室で帰りを待っていたエウレカは、びっくりしてメイドを見た。
「はい。どうやら国王陛下から祝いの席でお酒を勧められたようでして、少し意識が……」
「それは大変ね。力のある使用人を集めて迎えに、」
「玄関までは戻られています。同僚の方々が連れて帰ってくださったようで」
「分かったわ、行きましょう」
階段を半分ほど降りたところでエウレカは、長身の夫を担いでヨタヨタと歩く男たちを発見した。後ろから付いてくる女には見覚えがあったので、立ち止まって名前を呼ぶ。
「ラウラ様……?」
「奥様!敬称は不要ですよ、ご心配をおかけしてすみません。中佐は眠っているだけですので大丈夫ですよ。どちらに運べば?」
慌ててメイドと二人でエウレカは寝室へと一行を案内した。アルキメデスは目を閉じたままでベッドの上へと運ばれ、男たちは疲れを露わに階下へと戻って行く。ラウラもまた頭を下げて後を追った。
メイドに見送りを頼んで、エウレカは夫に向き直る。規則的に上下する胸を見下ろして、右手をその頬に添えてみた。
「また期待してるなんて、馬鹿よね」
ふっと息を吐いて、目元を拭う。
踵を返して部屋へと戻ろうとしたところで、強い力で腕を引かれた。エウレカは驚いて振り返る。
「どうしてここにいるんだ」
咎めるような口調に、容赦のない力加減。
今朝と同じ人間とは思えない冷たい目。
「あ……アルキメデス……?」
「私の質問に答えろ。なぜ君が私の寝室にいるのかと聞いている」
「貴方が、私と眠りたいと、」
一瞬だけ見開かれた目に戸惑いの色が浮かぶ。
しかし、夫はすぐに表情を消した。
「私はどうかしていたようだな。今すぐこの部屋から出て行け。これまでに言ったことはすべて忘れろ」
「どうして……?」
「ラウラが教えてくれた。ここ最近の私は奇病に罹っていたそうだ。熱に浮かされた人間のうわ言に意味はない」
そう吐き捨てるように言って、アルキメデスはもう一度「出て行ってくれ」と扉を指差した。エウレカは呆然と廊下に出て、赤くなった自分の手首を眺めた。




