12 day8
エウレカに分かっていることは一つだけ。
夫はまた、五年前の彼に戻ったという事実。
「若奥様……朝食はいかがいたしましょう?」
「要らないわ。一人になりたいの」
顔を覗かせたメイドに伝えれば、相手もしんみりとした表情で頭を下げて出て行った。
使用人たちも困惑していることだろう。
ところ構わず妻を追いかけ回して愛を振り撒いていたアルキメデスが、一日で人が変わったように冷淡になったのだから。
昨日の短い会話以降、夫から話はない。
屋敷にいるのかどうかも分からない。
アルキメデスによると、薬師のラウラは彼の症状が奇病だったと伝えたらしい。
確かにまともな状態ではなかった。
だけれど、熱や湿疹が出ているわけでもなく、彼は至って健康で、違うのはいつもより調子よく出てくる甘い言葉ぐらい。なんて紛らわしい病気だろう。
(うっかり、愛してしまうところだったわ……)
一人反省して、小さく笑う。
一週間も続けば、あのままアルキメデスは愛妻家として生きて行くのかと期待しそうになった。あわよくば二人の間に子供でも出来て、軍人としての生き方を彼が見直すきっかけにでもなればと。
過ぎた日々を思い返してもう一度微笑む。
随分と短く、よく出来た夢だった。
「……また、元の生活に戻っただけよ」
ベッドの中で寝返りを打つ。
アルキメデスはこの七日間の記憶について、どの程度覚えているのだろう。
文字通り、熱に浮かされたような状態で、ほとんどのことを忘れてしまったのだろうか。ここ数日で彼がエウレカに伝えた「愛している」という告白の数を教えてあげたら、きっと鼻で笑い飛ばすだろう。
それぐらい、あり得ない。
自分が一番分かっていたはずなのに。
むくりとエウレカは身体を起こして、カーテンの隙間から外の様子を確認する。晴れてはいないものの、まだ雨は降らないようだ。
呆然と座り込んでいたら、テーブルの上に四つ折りにした白い紙が目に入った。近付いて開いてみると、ラウラの名前と住所が書かれている。そういえば、叙勲式の際に受け取ったのだ。
(何か……詳しいことを教えてくれるかしら?)
エウレカは意を決して立ち上がる。
クローゼットを開いて、半分ほどの衣服をごそっと取り出した。それらは最近アルキメデスが買い与えてくれたもので、今の状態で着ようとは思えない。ちょうど空いていた収納箱があったので、投げ入れて蓋をする。
着れる服は随分と減ったが、エウレカはその中から一番落ち着いた色合いのものを選んで袖を通した。
廊下で控えていたメイドに背中のホックを合わしてもらい、化粧台の前に座って外出するための化粧を施してもらう。顔色の悪さは多少マシになった。
最後に姿見の前で全身を確認して、エウレカは部屋を後にした。
◇◇◇
薬師が住むのは、意外にも王宮から近い場所だった。
通常王宮の近くの土地は賃料も高額であるため、個人で借りることはない。彼女もまた、家を出て働いているアルキメデスのような貴族なのだろうか。
馬車から通りへ降り立ち、少しの間そこで待っていてほしいと伝える。長話をするつもりはなかった。夫の急激な変化について、彼女から詳しい説明を受けたいと思ったのだ。
「突然の訪問をお許しください。貴女は夫と同じ隊で働いていると聞きました。夫に……奇病に罹っていたと伝えたそうですね?」
慎重に切り出すと、ラウラは穏やかな笑みを湛えたままで頷いた。
一人暮らしで住むには随分と広い空間だ。
最近越してきたばかりなのか、部屋の中には紙箱やトランクケースが散乱しており、至るところから衣服や何かの道具が飛び出している。
「オルガノ中佐が飲んだのは惚れ薬です」
「惚れ薬……?」
想定外の言葉に聞き返すエウレカの前で、ラウラは「はい」と肯定する。白衣姿の若い女は目を閉じて話し続けた。
「もともと薬の持続性は一週間ほどで切れる予定だったのですが、アルコールを多量に摂取したことで分解が進んだのでしょう」
「一週間……」
「中佐の場合は、任務中に起きた記憶障害が重なったようです。この薬は真面目な人ほど影響を受けやすいので」
「随分と詳しいのですね。正直、私はまったく気付けませんでした。外面には何の変化もありませんでしたから」
「そういう風に作られているのです」
首を縦に振ってラウラは得意げな表情を見せる。
訝しむエウレカの前で、薬師は立ち上がった。
「英雄になったオルガノ中佐に、第二王女殿下が関心をお持ちです」
「……え?」
目を見開くエウレカを見下ろしてラウラは笑う。
「悪くない話だと思います。第二王女と中佐が婚姻関係になれば軍への支援も桁違いに増えるはずですから。問題があるとすれば、中佐が結婚していることぐらいで、だから私が協力を申し出ました」
「それは……どういうことですか?」
「簡単です。惚れ薬を使って第二王女を好きになってもらえば良い。だけど、私だって人間なので失敗を恐れていました。妻である貴女で試すことで、効果を測りたかったのです」
頭を殴られたような衝撃があった。
いっそ本当に殴って欲しいとさえ思った。
そうすれば、エウレカは気絶するだろう。
この悪夢のような話は聞かずに済むし、自分の部屋で静かに丸まって眠ることができる。何も知らずに、ただ夫に愛されない女として。
「……何を望んでいるのですか」
掠れた声で尋ねると、ラウラはこちらを見た。
「離縁状を書いてください。下調べしたところ、お二人の結婚は契約婚です。中佐は律儀に約束を守って貴女との結婚を続けているだけ。反故にするには貴女からの提案が必要でしょう」
「それで、夫は……」
「第二王女と結婚していただきます。惚れ薬の効果は抜群でしたから、強度を上げれば永遠の愛を保証できるかと」
ご協力感謝いたします、と頭を下げる薬師にどんな言葉を返せば良いか分からない。
ようやくこの一週間のアルキメデスの奇行の原因が判明したというのに、エウレカは微塵も嬉しくなかった。それどころか、心の中は空っぽで、夫から言われたいくつもの夢のような言葉だけが浮かんでは消えて行った。




