13 day9
全部が全部、すべて。
最初から用意されたものだった。
良かったと思うべきだろう。
あれほど覚悟していた離縁が、今まさに目の前に迫っている。自分だけでは決断に至らなかったから、第三者に背中を押された方がはるかに良い。
(アルキメデスは何も思わないでしょうね。オルガノ伯爵家からしたら快諾以外の選択肢はないもの……)
相手は王国の第二王女。
英雄になった息子が、五年間大して興味を示さなかった妻と離縁して王女に見初められる。それは嬉しいニュースでしかないだろう。高貴な赤ん坊でも生まれれば、尚のこと。
「ふふっ……とんだ当て馬だったわね」
お飾りの妻から溺愛を経験し、すべては惚れ薬による誤作動だったと判明した。優秀な薬師はその腕を証明できた。王女に取り立てられれば、もっと良い暮らしができるだろう。
エウレカはどうなるのか。
ルーヴェンの家に戻ったら兄のアイザックあたりは喜ぶだろう。彼はもともと結婚に反対だったし、アルキメデスが戦地に去ってからは、より一層嫌悪を募らせていた。
一度結婚してしまった手前、エウレカの女としての価値は多少下がったかもしれない。だけれど、もう誰かと結婚しようとは思えないし、今となってはどうでも良い。
もう、何もかもどうでも。
◇◇◇
「わ、若奥様……?」
翌朝、エウレカの部屋に入ってくるなりメイドたちは驚きの顔でその場に固まった。彼女たちの表情を一瞥して、エウレカは再び鏡に向き直る。
「何か変かしら?」
「いえ、ただ、その髪はいったい……」
「鬱陶しいから切ったの」
嘘ではない。
エウレカは昨夜ふと思い立って、胸元まで伸ばしていた黒髪を肩に付かない長さまで切った。自分で切ったので多少不恰好ではあるものの、前より頭が軽くなって気に入っている。
お声を掛けてくだされば良いのに、と言いながらあたふたと状態を確かめるメイドたちを横目に、エウレカは短い息を吐いた。
こんなことなら、もっと早く好きにすれば良かった。
戻らない夫を待ちながら、どこかで聞き齧った彼の好みに合わせて髪を伸ばしていた。ドレスだって軍人の妻だから、という理由で派手な装飾のない無難なものを着ていたけれど、そんな配慮は初めから不要だったのだ。
「今日のお召し物は随分と……」
言いながらメイドの視線が下へと落ちる。
エウレカの着ている濃紺のドレスは裾から腿の辺りにかけて深いスリットが入っていた。歩きやすくて良いと思う。
「お腹が空いちゃったわ。朝ごはんにしましょう」
「あ、若奥様……!」
颯爽と部屋を飛び出すエウレカの後を、バタバタとメイドたちが追いかける。
いったい何に配慮する必要があるのか。
どうせエウレカはこの家を出て行く身なのだ。
食堂に入るとちょうどオルガノ伯爵夫妻が食事中で、二人はこちらを見てなんとも言えない顔をした。息子の態度が一変したという知らせはすでに義両親の耳にも入っていることだろう。
「おはようございます。お義父様、お義母様」
「あぁ……おはよう、エウレカ」
アルキメデスはすでに外出したのかもしれない。
離縁を切り出す計画を立てなければ。
また彼の不在中にこっそり部屋に忍び込んで、ベッドで午睡でも取っていれば、逆鱗に触れて向こうから言い出してくれないだろうか。
愛のない結婚とは言えど、離婚を申し出るのはやはり気が進まない。なんとか円満に終わらせたいのだが。
(屈強な軍人が、惚れ薬なんかに惑わされるなんて滑稽だわ)
そして、それを信じた自分も馬鹿だ。
二人揃って救いようのない馬鹿になる前に彼の魅了が終了して本当に良かった。五年も回避し続けていた初夜を捧げなかっただけマシだろうか。
食事を終えてその場を去ろうとする義両親にそれとなくアルキメデスの行方を尋ねたところ、部屋で書き物をしていると回答があった。
エウレカは意を決して頷く。
言うならきっと早い方が良い。
オルガノ伯爵家を出て行くとなると、こちらだって荷物の整理が必要だ。なにぶん五年も住んでいたから、下手をすれば不在にしていた夫よりも荷物が多い可能性がある。
「まずは口頭で伝えて、書類はルーヴェンの屋敷へ戻ってからでも良いわね……」
食堂を出て、エウレカは独り言を言いながらアルキメデスの部屋を目指す。
昨日の今頃は何をしていただろう。
夫が運んできてくれた朝食を部屋で食べていた頃かもしれない。恥ずかしそうに夜の誘いをするアルキメデスを思い出して、エウレカはまた小さく笑った。
思いを改めて、口元を引き締める。
腑抜けた顔で彼の元へ行くわけにはいかない。
アルキメデスは三度のノックの後、抑揚のない声で「入れ」と返答した。その声音を聞いて、エウレカの気持ちがまた沈む。
「少しお話、よろしいでしょうか?」
「長くならないなら構わない」
目線は書類から一切上げずにそう答える。
こんなに無愛想な男でも、惚れ薬を飲めば大きな犬のようにゴロゴロ甘えるのだから、ラウラはきっと凄腕の薬師なのだろう。もっと彼女を褒めてあげれば良かった。
「時間は掛かりません。離縁の申し出に来ました」
そこで初めて、アルキメデスは手を止めた。
羽ペンを机に置いてこちらへ目を向ける。
「今、なんと言った?」
「離縁しましょうとお伝えしました」
灰色の瞳を細めて、アルキメデスが立ち上がる。大股でエウレカの前まで歩いてくると、黙ったままで睨み付けた。いったいどうして彼はいつも高圧的なのだろう。
「書類は後日お送りいたします。しばらくタランタへ帰るので、もう私の顔を見ることもありません」
その方が良いでしょう、と言ってエウレカは下を向く。夫の反応など知りたくなかった。
早く「分かった」と頷いてほしい。
何も興味がないといういつもの素振りで、その程度のことで部屋へ来るなと迷惑そうに。優しくもなければ慈しみなんて欠片もない、アルキメデス・オルガノという男らしく。
「断る」
頭上で聞こえた返答に、エウレカは目を見張った。
思わず顔を上げて夫の表情を確認する。
「……は?」
「君の願いは聞き入れられない。私たちは夫婦で、君はオルガノ伯爵家が迎えた私の妻だから」
「貴方……正気ですか?」
エウレカの質問にアルキメデスは答えず、元通り机へと戻るとそれっきり言葉を発しなかった。五分ほど粘ってみたが人形のように動かない夫を前に、エウレカはひとまず退散することにした。




