03 どうやら愛しているらしい
翌朝、エウレカを叩き起こしたのはけたたましいノックの音だった。
適度なリズム感をもって繰り返されるノックは、まだまどろみの中に沈んでいたい頭を無理やりに揺さぶるようだ。新人のメイドなら教育係に報告しなければ、と扉を押し開けて、絶句した。
「おはよう、エウレカ!良い天気だ」
満面の笑みで立っていたのは、我が夫。
昨日から様子がおかしいこの男は、どうやら今日も継続して変だ。
「……アルキメデス様、ノックを何回もする必要はありません。そもそも私を起こすのはメイドの仕事です」
「愛する妻の顔を一番に目にするのは夫の権利だろう。今日も君は世界で一番美しい」
見惚れてしまう、と言いながら伸びて来た手をスッと避けて、エウレカは距離を取る。
隙あらば触れてこようとするこの手。
油断していたらまた抱き竦められていただろう。
昨日帰還したときの夫は軍服を身に付けていたが、今日は予定がないのか普段着のようなシャツを羽織っている。確かに日頃の鍛錬の成果は彼の体格に表れていた。
(きっと、他の令嬢たちも寄って来るでしょうに……)
オルガノ夫妻が話していた内容によると、アルキメデスは現在中佐という職位にあるらしい。まだ若い彼がそのポジションにあるのは異例とのことで、二人とも息子の昇進を素直に喜んでいた。
「今から着替えますので、また後で」
「分かった」
笑顔で返答した後も一向に部屋から出て行く気配のない夫に、エウレカは問い掛けた。
「あの、私は着替えるのですが?」
「え?」
「なぜ当然のような顔でそこに居座るのですか。ここは貴方のお屋敷ですが、淑女の着替えを覗く権利はありません」
「覗きではない。私は手伝おうと……」
「結構です」
ピシャリと言い返して、エウレカはアルキメデスを部屋から押し出した。入れ違いで入って来たメイドがなんとも言えない顔でこちらを見る。
「ずっとあんな調子なのよ」
肩を回しながら溜め息を吐くエウレカに、メイドは不思議そうに目を丸くした。
「若奥様は愛されているんですよ。五年ぶりに帰って来た夫ですもの、当然です」
「……そうかしら」
これまでのアルキメデス・オルガノという男を理解していれば、現状は正常とは言い難い。
しかしながら解決策がないのも事実で、解決したところで待っているのは冷遇だ。それならば成り行きに身を任せるのもアリではあるが、なかなか気持ちの切り替えはできない。
エウレカは何度目かの溜め息を吐き、クローゼットへと向かった。
「買い物に、二人で……?」
朝食を食べ終えるなり「提案なんだが」と近付いてきたアルキメデスが何を言うのかと思えば、買い物の誘いだった。
曰く、久方ぶりに戻ったから屋敷で保管していた昔の服の寸法が合わないらしく、目をやれば彼の足首は少しズボンからはみ出している。
「構いませんが……」
「予定があるのか?」
「いえ、ただ、少し急なので……」
歯切れの悪い返事をしながら義両親の姿を盗み見る。どういうわけか、二人は嬉しそうに首を縦に振っていた。行けということだろう。
「分かりました。行きましょう」
「ありがとう」
眩しい笑顔を向けられると、心が痛む。
現在の夫の姿が仮初であることを知っているから、エウレカは身構えてしまう。だけどアルキメデスからしたら拒絶と捉えるかもしれない。
なんと言っても、相手は挙式後すぐに姿を消した夫なのだ。国のための英雄になったところで、失われた五年間は埋まらない。
(もう、あんな思いはしたくないのよ)
式の翌朝、目覚めたら夫はいなかった。
使用人からは突然の召集があり、夜明け前にアルキメデスは屋敷を去ったと言われた。指一本触れられないまま、花嫁は化石になったのだ。
そんな夫が今、全力で愛を伝えてくる。
嘘みたいな言葉と笑顔で。
「エウレカ」
名前を呼ばれて顔を上げた。
不安そうな灰色の瞳がこちらを見ている。
「気分が優れないなら無理に行かなくても良い。私は君の気持ちを尊重する」
「ありがとうございます。気分転換に外に出たいと思っていましたから、大丈夫です」
パッと明るくなったアルキメデスの顔を眺めていると、ふわふわした感情が湧き上がるのを感じた。胸を何度か撫で下ろして、その感情を鎮める。
(…………何かしら?)
例えるなら、初めて飼った犬が自分に懐いてくれたときのような。焼きたてのマドレーヌを頬張るときみたいな気持ち。
首を傾げてエウレカは立ち上がる。
あれこれと話しかけるアルキメデスを適当にいなしながら、出掛ける準備に取り掛かった。




