02 どうやら勘違いらしい
「やはり、ガナルの街は美しいですね。国境は砂漠が広がっていますから、こんなに大きな運河は見られません」
生まれ故郷である王都ガナルを褒め称えながら、アルキメデスは器用に肉を切り分ける。
エウレカは生きた心地がしなかった。
帰って来た夫はどこか変だ。なにぶん五年ぶりなので、多少の変化は理解できる。しかし、言葉で言い表すことができない違和感を感じていた。
「まぁ、水の都と呼ばれるぐらいだからな。それにしてもアルキメデス、その手は……」
「手がどうかしましたか?」
きょとんとした顔で尋ねる夫の左手は、隣に座るエウレカの手を握っていた。机の上で重なった二つの手を、まるで珍獣でも見るような目でオルガノ夫妻は見ている。
エウレカだって二人の気持ちは分かる。
これはいったい何事だ、と言いたいのだ。
「アルキメデス、エウレカの手を離してやりなさい。さっきから食事がまったく進んでいない」
困ったようにそう言うゴルディに、アルキメデスはハッとした顔で手を離した。
「すまなかった。私としたことが、妻の邪魔をしていたとは。君はただでさえ華奢なんだから、もっと食べた方が良い」
言いながら自分の皿からせっせと肉を移動させようとするものだから、エウレカは驚いてその手を制止した。
掴んだ手首の太さに驚く。
自分のものより遥かにがっしりしている。
「あの……お気持ちだけで十分です。貴方のような軍人と違って、私は大した運動もしておりません。栄養を心配する必要はないかと」
「しかし、顔が青白い。ちゃんと眠れているのか?」
「……!」
アルキメデスの手がエウレカの頬に触れた。
結婚して五年、初めてのこと。
自分ではない人間のひんやりとした指に、全身が緊張を覚える。いったい夫はどうしたのだろう。こんな真似をする人ではないはずだ。
アルキメデスの変貌は、誰の目にも明らかだった。オルガノ伯爵夫妻だって奇妙なものを見る顔をこちらに向けているし、使用人たちだって驚きの表情を浮かべている。
気づいていないのは、おそらく本人だけ。
「ね、眠れています……大丈夫です」
なんとか答えて顔を背けた。
会話の一つ一つが疲れる。
「それにしても、お前はこの五年間いったい何をしていたんだ?忙しかったのだとは思うが、手紙の一つも寄越さないなんて……」
不貞腐れたようにそう言うゴルディを見て、アルキメデスは頷く。
「国境を跨いで攻め入ってくる蛮族の相手をしていると、つい日常と距離が生まれてしまう。残してきた家族のことを思えば、足が竦んでしまいますから」
「つまりお前はずっと、本当はガランへ戻りたかったというのか……?」
「もちろんです。こんなに美しい妻を置いて出て来た自分を恨んだ夜もありました」
アルキメデスが言い終わる前に、エウレカは盛大に咽せた。
変なところに入った肉の塊を飲み込むために、必死の思いで水をがぶ飲みする。こちらの耳がおかしくなった様子はないので、おそらく壊れているのは夫の頭の方だろう。
(本当にどうしたっていうの……?)
五年前に、初夜の場で「白い結婚だ」と言い渡した男とは思えない。本当に同じ人間なのかすら疑わしい。
もしかすると、戦場で生死の境を彷徨うような事態に陥り、心を入れ替えたのだろうか?
それとも、自分と同様に家庭を持つ軍人の身の上話を聞くうちに、結婚への考えが変わったとか。
そうでないとあり得ない。
少なくとも、エウレカの知っている夫ではない。
「そういえば、お前と一緒に戻った軍人たちによると、先週一週間は寝込んでいたらしいな?」
父親の言葉にアルキメデスは頬を掻く。
「あぁ、そうですね。大したことはありませんが、敵が潜んでいると報告のあった山を探索中に、崖から滑落したんです」
それは大したことじゃないの、とオルガノ夫人が口を挟んで、夫婦は心配そうに顔を見合わせた。
「身体に異常はありませんよ。軽い脳震盪を起こしていたので、安全を取って休養していただけで」
「え、脳震盪?」
エウレカは咄嗟に聞き返した。
アルキメデスはこちらを見て頷く。
「しばらく意識が朦朧としていたんだ。記憶障害みたいなものもあったけれど、今はもう問題ない」
「それは……」
もしかしなくても、原因はそれではないか。
夫が別人級に人が変わった理由も、事故による影響であれば説明がつく。そうなれば、恐ろしいのは元の人格に戻ったときだ。
(また、私を拒絶するんだわ)
あの冷たい灰色の瞳で。
エウレカの存在を否定するのだ。
「そんな顔をするな、エウレカ」
優しい声音に思わず顔を上げた。
「この通り私は元気だ。君を一人にしていた分、これからは愛を伝えていきたい」
「アルキメデス様……」
今の夫は正気ではなく、これが本心からの言葉ではないと分かっていても、胸は高鳴った。失っていた五年分の愛を期待してしまう。
「いやはや、そろそろ食事はお開きにしようか。若い二人には積もる話もあるだろう」
あせあせと立ち上がった義父がそう言って義母を振り返るのを見て、エウレカは我に返った。
「そうですね。アルキメデス様は長旅で疲れているでしょうから、話はまた明日にしましょう。まずはお部屋でおやすみくださいませ」
「ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えよう」
オルガノ夫妻に就寝の挨拶を告げて、エウレカは夫と二人で階段を登った。扉の前で「私はここで」と伝えると、アルキメデスは首を傾げる。
「何を言っているんだ?」
「え?」
「君と私は同じ寝室だろう」
数秒の沈黙の後、やっとの思いで「それは勘違いですね」と言い渡して扉を閉めるまで一分足らず。
何やら騒ぐ声がしたが、エウレカは心の健康のためにすべての騒音を遮断して、ベッドの上で瞳を閉じた。




