01 どうやら夫は英雄らしい
病めるときも、健やかなるときも
夫婦はどうやら共に生きていくらしい。
「……馬鹿馬鹿しい」
届いたばかりの招待状を封筒に戻して、エウレカは控えていたメイドに手渡す。
手紙の束を籐のカゴに載せたメイドは、よろめきながらそれを受け取った。今日はやけに郵便が多いようだ。月の初めだからだろうか。
どこかの子爵家の娘が結婚するという知らせを受けて、エウレカは自分の結婚式を思い返した。記憶とは不思議なもので、嫌な思い出ほどよく覚えている。
五年前、エウレカは夫と結婚した。
夫の名前はアルキメデス・オルガノ。
オルガノ伯爵家の後継者であり、提督だった祖父の後を追って軍人として生きることを選んだ戦闘狂。オルガノ伯爵は息子が心変わりをして家に戻ることを望んでいるけれど、まだまだ先の話だろう。
今でもはっきり覚えているのは、結婚初日の夜、寝室にやって来た夫が発した屈辱的な言葉。
「これは白い結婚だ。君からの愛を望まない代わりに私も君を愛さない」
夫婦が迎える初めての夜に向けて、心を高鳴らせていたエウレカにとって、それは最大の侮蔑だった。18歳という若く美しい新妻を、夫は無価値なものとして切り捨てたのだから。
抗議も話し合いも許されず、翌朝にはアルキメデスは戦地に向けて旅立った。
屋敷に残されたエウレカは、気の毒そうに目を伏せる伯爵夫妻と、同じく腫れ物に触るように接する使用人たちと共に、オルガノ邸に残された。
あれから、もう五年が経つ。
病めるときも、健やかなるときも。
エウレカの隣に夫の姿はなかった。
「急ぎの手紙はないかしら?今日は天気が優れないから、私は部屋で過ごすわ。何かあれば侍女に連絡を……」
言い終わらないうちに、メイドは慌てた様子でスッと一通の手紙を差し出した。それは赤い封筒に入った薄い手紙で、金の封蝋が押されている。
押された印の形には見覚えがあった。
金獅子はオルガノの家紋だ。
オルガノ邸に向けて、オルガノの印が入った手紙を送ってくる人間など一人しかいない。つまりこれは、戦地で過ごす夫からの手紙。
エウレカは息を呑んで、封を切る。
そして、言葉を失った。
「あの……エウレカ様、お返事が必要であれば……」
心配そうな顔をしたメイドが目に入ったが、それどころではなかった。
急いで机に歩み寄って、一番下の引き出しを開ける。そっと手を差し込むと、何年振りかに目にする懐かしい書類が現れた。結婚の際に交わした契約書だ。
二枚の書類を机の上に並べて見比べる。
紛れもない、夫の字である。
(嘘でしょう……どうして今更、)
エウレカは身を翻してメイドの元に戻り、一息吐いて口を開いた。
「アルキメデス様が戦地から帰還することになったわ。屋敷に到着するのは三日後よ。お義父様たちに知らせて、すぐに迎え入れる準備を」
彼のことだから、伯爵夫妻もまた今頃手紙を読んでいる頃かもしれない。二人ともさぞかし驚くことだろう。戦地に行って五年戻らなかった息子が帰ってくるのだから。
バタバタと部屋を出て行くメイドを見送って、エウレカはその場に座り込む。まだにわかに信じがたい知らせだった。
五年間、手紙は一通もなかった。
他の貴族の友人たちからは、夫と旅行に出掛けたり、子宝に恵まれたという報告を何度も受けた。軍人を夫に持つ数少ない知り合いも、休暇を利用して夫が戻ってくると声を弾ませて教えてくれた。
エウレカは、五年間一人だった。
夫は死んだものと信じるくらいには。
◇◇◇
「アルキメデスは派遣されていた国境周辺で敵を撃退し、更に南下を進めたらしい。噂では英雄として国王陛下から叙勲を受けるとか……!」
嬉しそうに揉み手で話す義父ゴルディに適当に相槌を打ちながら、エウレカは気が重かった。
どうやら、アルキメデスは軍でかなりの功績を上げたらしい。無能よりは有能であった方が聞こえは良いものの、彼が夫としては評価に値しない事実は変わりない。
英雄だから、何だというのか。
エウレカは壁に掛かった時計を盗み見る。
あと二時間もすれば夫は屋敷に到着するだろう。
五年ぶりに会う夫は、もはや他人だ。
オルガノの義両親は息子の帰還を喜んでいるようだが、エウレカはどんな顔で迎えれば良いのかまだ悩んでいた。表面上だけでも、帰りを待っていた妻の真似をしておくべきだろうか。
戦をしながら国内を転々と移動していたエウレカの夫に、愛人がいるのではないかと邪推する友人もいた。最初は心が傷んだものの、今ではなんとも思わない。
むしろ、離縁を言い渡してくれたって良い。
互いに領地が隣接するオルガノ伯爵家とルーヴェン伯爵家は、自分たちの子供達が妙齢の男女となったら婚約することを約束していた。どちらから提案されたのか知らないが、その地獄のような契約はしっかりと実行され、エウレカは18歳でアルキメデスの妻となった。
初夜で妻に愛さないと言い渡した男が、英雄という冠を被って帰ってくる。
だから、どうしろと?
「あら!今、馬車の音がしたわ!」
「アルキメデスに違いない!」
喜び勇んで部屋を出て行くオルガノ伯爵夫妻の背をぼんやりと眺めて、エウレカも立ち上がる。
夫はどんな顔をしていただろう。
エウレカが結婚した当初は些細な嫌味を書いた手紙を何通か受け取ったから、夫に想いを寄せていた令嬢も多少は居たのだと思う。
声や背格好は?
触れたこともない夫の身体なんて、分からないし想像もつかない。五年の間に丸々と肥えてでもいない限り、変化には気付かないだろう。
「あぁ、エウレカ!貴女も早くこちらへ……!」
じれったそうに手招きするオルガノ夫人の向こうに、エウレカは夫の姿を見つけた。
そうだ、思い出した。
この無表情をよく知っている。
落胆と絶望に包まれるエウレカの前に、アルキメデスが歩みを進めた。五年ぶりに見る夫の灰色の瞳は相変わらず冷たい。
「旦那様……よくぞご無事で、」
なんとか絞り出した細い声は途中で途切れた。強い力で抱き寄せられ、気付けばエウレカはアルキメデスの腕の中にいた。
「会いたかった、エウレカ」
言葉が出ない代わりに、周囲の反応が目に入る。オルガノ伯爵夫妻も使用人も、誰もが驚きの表情で二人を取り囲んでいた。




