番外編 day100_2
ルーヴェン伯爵家の嫡男である自分に「お前は重度のシスコンだから未来永劫結婚はできない」と指摘した無礼者がいる。
確か、どこかの男爵家の令嬢だった気がするが、こうした言葉は大抵親切な人間の皮を被った下衆から発せられるので、アイザックは微塵も気にしていなかった。
事実、アイザックはエウレカを愛していた。
やましい気持ちはもちろんないが、妹に近付く蠅をことごとく撃ち落としてきた自負はある。そのほとんどに当の本人は気付いていないのだが。
「エウレカ、玄関まで私の手を握れば良い」
「……ありがとう」
オルガノの馬車を降りた二人は、ぬかるんだ道をこちらへ向かって来る。ところどころに出来た水溜りを見ながら、こんなことなら自分で埋めておけば良かったと後悔した。
素直に手を借りるエウレカもエウレカだ。
以前は、一人で歩けると突っぱねていたのに。
「君は士官学校の教師になったそうだな。確かに、同じ脳筋相手ならば君でも教鞭を振るえるだろう」
言葉が通じるだろうから、と言い添えて父カナンは含んだ笑いを見せる。口を開けば嫌味を言う性格は、もしかするとルーヴェン伯爵家の男の共通点かもしれない。
「はい。これで妻を少しでも安心させられるなら、良い選択だったと思います」
「安心?」
「以前言われたのです。一人にしないでほしい、と」
「アルキメデス!」
鋭い声が響いたかと思うと、隣から伸びてきた手がアルキメデスの口を塞いだ。見れば、エウレカは立ち上がって顔を赤くしている。
いつも冷静沈着な妹が見せる新しい表情に、アイザックは心から驚いた。それは他の家族も同様のようで、母も父も目を丸くしている。
「みなまで言わなくても良いのよ。貴方はいつだってそうだわ、二人のときの会話をここで持ち出さないでちょうだい」
「しかし、嘘を言ったわけではない。私は君の希望にできる限り寄り添うために……」
「その希望を明かす必要はないの!」
そうなのか、と答えるアルキメデスの隣でエウレカはまだ怒った顔をしている。
妹がこんな風に他人に本音を伝えるのを、初めて見た気がする。エウレカは幼い頃から理性的で落ち着きがあり、それゆえによく周りの大人は彼女を褒めていた。さすが我が妹だ、とアイザックも鼻が高かったのを覚えている。
そんな彼女が人目も気にせず夫と口喧嘩をしている。喧嘩と言うほどではないかもしれないが、今までのエウレカならばあり得ない。
(この男のせいか……?)
浮かんだ可能性をすぐに揉み消した。
エウレカ自身、離縁を考えるほど嫌っていた相手だ。癪だが、アルキメデスが不器用ながらも妻を大切に思っていることは理解できた。しかし、父に似た自分がそれを丁寧に一から十まで妹に説明してあげるはずがない。
「だけど、実際夫が近くに居た方が良いわよねぇ。エウレカだって子供ができたら忙しくなるわけだし」
何気なく言い放った母の一声に、アイザックは葡萄酒を吹いた。白いテーブルクロスの上に血のような赤いシミが飛ぶ。
慌てた様子でメイドたちが走り回る中、机の向こう側からスッと何かが差し出された。水色のレースで縁取りがされたハンカチだ。
「お兄様、落ち着いてください。客人の前であまり無礼な真似を続けると、ルーヴェンの名に泥を塗ることになります」
呆れた顔のエウレカに礼を言いつつ、ちらりと隣に座るアルキメデスを見遣る。「優しい妹はこんな風にいつだって兄を気遣ってくれるんだぞ」と伝えようとしたが、思いとどまった。
どういうわけか、アルキメデスは笑っている。
手を組んで、微笑ましいものを見るかのように。
「エウレカは準備が良いでしょう?」
「……はん?」
「気配りの出来る女性です。仕事柄、よく汚れた靴で帰宅するのですが、彼女は泥が跳ねているのを見るとこうやってハンカチを貸してくれる」
アイザックの感情は丸々表情に出ていたようで、何度か母親に名前を呼ばれて我に返った。
なにが脳筋の英雄だ。
しっかりこちら側の人間ではないか。
これ以上家族の前でラリーを続けるわけにもいかず、アイザックは黙って食事に集中するようにした。料理の味はよく分からなかったが、机の向こう側で会話する妹とその夫が、二人だけの世界を形成しつつあることは十分理解できた。
「気分を害しましたか?」
食事を終えて外で葉巻を吸っていると、後ろから声が掛かった。振り返らなくても誰かは分かる。
「自覚があるなら慎め。俺はエウレカの兄だ」
「私は夫です」
「……そういうところだよ」
苛立ちながら葉巻を捨てる。
革靴で火を揉み消すと、立ちはだかる男を睨んだ。
「俺はお前が妹を幸せにできるとは思っていない。真面目な性格は買っているが、悲しませるような真似をしたら許さないからな」
「肝に銘じておきます」
「第一、こんな親同士が決めた結婚をお前はどうして律儀に守るんだ。五年前、お前の中に妻への愛情なんてものは微塵もなかっただろう」
垂れ流されるアイザックの説教を聞きながら、アルキメデスは穏やかな表情を浮かべている。余裕すら感じられる立ち居振る舞いに違和感を抱いた。
「目に見えないものを証明することはできません。だから私は、残りの人生を通してエウレカに伝え続ける必要がある」
自分に言い聞かせるような静かな口調。
窓ガラスの向こうで両親と笑うエウレカが見えた。
「私は妻を愛している。今も昔も変わらない」
「お前、もしかして……」
ぽかんと口を開けて言葉を失うアイザックを見下ろしてわずかに口角を上げると、アルキメデスは屋敷の中へと姿を消した。
エウレカが言うには、五年ぶりに再会した夫の行き過ぎた愛情表現は惚れ薬の類いからくるものだったらしい。
だけれど、アイザックは疑っている。
本当にすべてが薬のせいだったのだろうか、と。




