番外編 day100_1
「え、また……?」
アリーシャは驚いて振り返る。
報告を上げた若いメイドはおずおずと頷いた。
オルガノ邸で働き始めたのは五年ほど前の話だが、いったいあのとき誰が予想しただろうか。五年後に、若い夫婦がこんなことになるなんて。
「良いわ。若奥様の部屋へは私が行くから、貴女は朝食の準備をして運ぶように手配してもらえる?」
「分かりました。ですが、ノックでは反応が……」
「ええ、大丈夫よ」
足早に夫婦の寝室へ向かいながらアリーシャはこっそり溜め息を漏らす。
オルガノ伯爵家の一人息子であるアルキメデスは、結婚当初は戦地を飛び回っていたが、ここ数ヶ月の間はずっと王都に滞在している。妻のエウレカ曰く、士官学校で実技の教育係として働き始めたらしい。
オルガノ伯爵夫妻はきっと喜んでいるはずだ。
彼らが望むものは、じきに手に入るだろうから。
「エウレカ様、お目覚めでしょうか?」
三度のノックに返答はない。
アリーシャは「失礼いたします」と大きな声で宣言をして、ドアノブに手を掛けた。呼び掛けに反応がなければ入室しても良い、と部屋の主人から許可を得ている。
案の定、ベッドの上には人影があった。
大きい方の人間はノックに気付いていた様子。
「アルキメデス様、おはようございます」
声を掛けると男は人差し指を自分の口元に近付け、静かにするようにと注意を促した。
「すまないが、エウレカはまだ就寝中だ。起こしたくないから食事はもう少し後で構わない」
「しかし、今日はルーヴェン伯爵家を訪問する予定が……」
アルキメデス本人もそのことを思い出したようで、しばらく目を閉じて考える素振りを見せた。数秒後、灰色の瞳がパッと見開かれる。
「寝台ごと運べるだろうか?」
「無理でしょうね」
即答すると分かりやすく肩を落として落胆するので、アリーシャは呆れながらも「それでは朝食を少し遅らせます」と申し出た。
そこまで妻の体調を気遣うならば、そもそも彼が熱心に寝室を共にするのをやめれば良いのだ。喉元まで出かかった言葉を伝えないのは、アリーシャも一応立場を弁えているから。
音を立てないように朝の支度を進める。
ベッドの脇を通る際に目をやれば、すやすやと寝息を立てる美しい顔が見えた。エウレカがこんなに無防備な姿で眠るのを初めて見た気がする。
その傍らで、妻の寝顔を眺める男に視線を移す。
この体格の良い大きな男が、かつて自身の妻に「愛することはない」と言い渡した事実は、未だに信じがたい。最近入った新人のメイドなんかが知ったら、またまたそんな冗談を、と笑い飛ばすだろう。
「アルキメデス様も着替えを済まされては?」
声を掛けたが、男は首を横に振った。
「エウレカが目覚めたとき、私は隣にいる必要がある」
「ここはオルガノのお屋敷です。それにもう若奥様は不安になって取り乱したりはしないかと……」
「良いんだ。好きでここにいるから」
これ以上何を言っても無駄だと思ったので、アリーシャは黙々と仕事を進めた。第一線で剣を振るって大佐と呼ばれていた男が、息を潜めて妻の起床を待つとは。
それにしても、ともう一度エウレカに目を向ける。
いつも凛とした態度を貫く彼女が、こんなに柔らかな表情を見せるとは知らなかった。どうやら関係性の構築は上手くいっているようで。
「彼女を……幸せにしたいと思う」
小さな声で呟かれた言葉にアリーシャは振り返った。アルキメデスは妻から目を離さずに、話し続ける。
「失った五年を取り戻せるだろうか?」
「努力は実っていると思いますよ」
正直な感想を伝えてみた。
実際、このところエウレカは笑顔を多く見せるようになった。長年不在にしていた夫が帰ってからというもの、困惑、恐怖と張り詰めた顔をしていた彼女も愛されることに慣れてきたようだ。
「若奥様は賢い方なので、その場凌ぎの贈り物や甘い言葉では響きません。地道な努力が良い結果につながるでしょう」
「随分とよく理解しているんだな」
感心するアルキメデスにアリーシャは微笑んだ。
「私はそうやって信頼を得ましたから」
わずかに見開かれる灰色の瞳を一瞥して「それではまた後で」と頭を下げる。彼にはもっと苦悩の時間が必要だ。少しばかりの意地悪を言うぐらい、きっとエウレカは許してくれるだろう。




