19 day82_2
「若奥様、香油はやめておきますか?」
「お願いするわ。たっぷりめで……ちょっと待って、あまり香りが強すぎると気分を害するわよね?」
ハッとしたエウレカが尋ねると、メイドのアリーシャは香油の入った小瓶を持って首を傾げる。どうでしょう、という意味らしい。
「そもそも、香油なんて塗る必要ないかもしれないわ。だって私は夫の部屋へ行くだけよ。良い香りをプンプンさせて行けば、まるで私だけ期待してるみたいで……」
「期待されているのですか?」
「してないに決まってるでしょう!」
思わず強い口調で返せば、アリーシャは耐え切れない様子で口元に手を当てて肩を震わせた。
エウレカはその姿を見てまた恥ずかしくなる。
どうして自分はこうも舞い上がったみたいな真似をしてしまうのだろう。そもそも、夫の部屋に行く前に風呂を済ませておく必要なんてなかった。
「食事のとき、アルキメデスから石鹸の良い香りがしたの。だから私だけ汚い身体で行くのもどうかと思って……これはあくまでも配慮なのよ」
「ふふっ、そうですね。若奥様は配慮の方ですから」
何が面白いのか、アリーシャは終始笑みを含んだ顔をしている。エウレカは気持ちが落ち着かず、鏡に映った自分の顔を見つめた。
三ヶ月ほど前に勢いに任せて切った髪は、その後メイドたちによって整えられた。それもまた年月の経過とともに伸び、今では元の長さに戻ろうとしている。
(アルキメデスは気にならないでしょうね)
鈍感な夫は、そんな些細な変化気にしない。
彼の中で生活は「戦」と「休養」に分けられている。
今は後者の方で、短い休暇を終えたらきっとまた鳥のように何処かへ飛んでいくのだろう。あの様子じゃ今回は惚れ薬騒動はなかったようだが、いつ愛人ができてもおかしくはない。
それだけ、英雄という名が与える影響は大きい。
寄ってくる女は第二王女以外にもきっといる。
アルキメデスが夫婦としての関係を守っているのは、彼が律儀にオルガノとルーヴェンの間で結ばれた契約を守っているから。そんなのもう大した意味を成さないのに、真面目な彼は約束を破らない。
愛していない相手と結婚を続けるなんて、きっと苦行でしかないのに。
「アルキメデス様、嬉しそうでしたね」
「嬉しい……?」
エウレカの問い掛けにアリーシャは深く頷く。
「戦地での緊張が解けたのでしょう。屋敷に戻られて、皆様と会話をされて、エウレカ様の方を見遣るお顔は安心した様子でした」
「彼が……私を見ていたの?」
「はい。一度や二度じゃありませんよ」
悪戯っぽい目をくりくりさせて、アリーシャは内緒話をするみたいに笑う。エウレカはどんな言葉を返せば良いか分からず、黙った。
よく分からない。
白い結婚を交わしたとはいえ妻は妻なので、不在にしていた間に問題がなかったか気にしているのだろうか。しかし、些細な問題でもエウレカは手紙にしたためて彼に報告をしている。
アリーシャが桃の香りのする香油を塗り終えたのを見計らって、エウレカは夫の部屋に向けて出発した。
「アルキメデス……私よ」
今日は部屋の前に執事がいなかったので、エウレカは声を張り上げて扉の向こうにいるであろう夫に知らせる。すぐにドアノブがくるりと回り、なぜか驚いた顔の夫が姿を現した。
黙って招き入れられ、椅子に着席するように言われる。エウレカは落ち着かない気持ちで部屋の中を見渡した。
相変わらず、ものが少ない。
だけど今回はまだ開封されていない木箱がいくつか積み重ねられている。新しい武器か何かだろうか?
「来ないと思っていた」
ぽつりと聞こえた小さな声が、夫の口から出た言葉だと最初は気付かなかった。
「え?」
びっくりして目を見開くエウレカを見て、アルキメデスは視線を窓の方へと向ける。
「離縁したいと言っていただろう。また私が生きて戻ったことに君はきっと落胆したはずだ」
「そんな悪魔みたいな性格じゃないわよ」
「どうだかな」
ムッとして言い返すエウレカを他所に、夫は指先で何かを弄っている。目を凝らして見ると、どうやら鍵のようだった。
「貴方、手紙を送ってくれたでしょう。私は嬉しかったんです。頼んだことを聞いてくれたんだと思って」
「ああ。面白みのない報告書で悪かったが、私は約束は守る」
「約束したから結婚を続けるの?」
間を置かずに聞き返すと、アルキメデスは黙った。
人形のように動かなくなった横顔を眺める。
本心を言い当てられて困ったのだろう。建前の後ろに隠れていた本当の気持ちは、妻であるエウレカに伝えるにはひどく現実的だ。
領地が接し合う者同士、仲良くやりましょう。
そんな親たちの考えの犠牲になった結婚だから。
「今も私の気持ちは同じよ。貴方が五年前と同様に心を通わせない白い結婚を希望しているというなら、」
最後まで言い終わらないうちに、アルキメデスの手がエウレカの肩を押さえた。強い力に眉を寄せると、慌てたように手を離す。しかしどういうわけか、再びその手はエウレカの手に重なった。
「五年前、私は自分の死を恐れていた」
アルキメデスは目を合わさず、エウレカの膝の上で繋がっている二人分の手を見下ろしている。
「出征の予定を君に共有しなかったのは心配を掛けたくなかったからだ。初夜を済ませて愛が生まれてしまってからでは遅い。私は君に愛されず、一人で戦地へ赴く必要があった」
黙ったままでエウレカは夫を見つめる。
薄い唇がわずかに震えていることに気付いた。
「私が愛さなければ、君も私を愛さない。寂しい思いはせず、無駄な感情とは無縁でいてほしかった」
私の存在を思い出すための手紙は不要だったんだ、と言ってアルキメデスは息を吐いた。大きな身体をした男が、小さな子供のようにエウレカの前で話している。
彼だけのために組み立てられた、言い訳を。
「へぇ、そうなの。それは仕方がありませんね」
ホッとしたように口元を緩めるアルキメデスの両頬をエウレカは左右から力任せに挟み込む。ばちんという痛々しい音が部屋に響いた。
「……なんて、言うと思った?」
そのまま思いっきり押せば、アルキメデスはバランスを崩してエウレカもろともソファの上に倒れ込んだ。
ふわりと桃の香りが鼻腔をくすぐる。
香油を勧めてくれたアリーシャに感謝すべきだろう。




