17 day13
夫から呼ばれたのは、翌日の夜のことだった。
そろそろ就寝の準備を、とエウレカがベッドに入った直後に、申し訳なさそうな顔をしたメイドが部屋を訪ねて来たのだ。
「あの、アルキメデス様が……」
「分かったわ。今向かうから」
「何の用件かお分かりですか?」
「だいたいね」
驚いた表情を見せるメイドの脇をすり抜けて、エウレカは廊下へ出る。どのみち、こちらも話をしたいと思っていた。
アルキメデスの部屋の前には彼の執事が立っていたが、エウレカの姿をみて頭を下げた。「若旦那様は中でお待ちです」と言いながら、ドアノブに手を掛ける。
エウレカは顔を上げて、部屋の主人を探した。
「こんな時間にすまない。昨日、君の兄上が屋敷に来たと聞いた」
アルキメデスは右手でエウレカに着席を勧める。
黙ったまま、白い寝着を揺らして椅子に近付いた。
「ええ。兄が非常識な時間に訪ねて来てすみませんでした。ときどき、周りが見えなくなるんです」
「……何か、聞いたんだろう」
答えに窮していると、夫はフッと笑う。
「来週からまたしばらく家を空けることになった。君に言われたように、私はどうやら結婚には向いていない」
「……分かっています」
ふらっと帰って来たと思ったら、人が変わったように溺愛をかましたり、義両親の前で馴れ馴れしく触れてきたりする。
元の性格に戻ったと思いきや、機嫌を取るようにらしくない贈り物をしてみたり。離縁を切り出しても取り合ってくれなかったり。
「私が戻って来なければ良いと思うか?」
抑揚のない声で聞かれて、エウレカは思わず顔を上げた。灰色の瞳と視線が絡む。
「そんな、ことは……」
「次に向かう先は死地と呼ばれる場所らしい。もともとここまで生き残ったのは、単に運が良かっただけだ。生きて戻る保証はいつだってないんだから」
エウレカはこの時初めて、夫の目の奥に揺れる恐怖を見た。
ゆらりゆらりと、もしかしたら。
彼自身も恐れていたのかもしれない。
「私が死んだら君は晴れて自由の身だ。ルーヴェンの家族も、私の両親も傷付けずに離縁することができる。君にとってはその方が良いかもしれない」
「どうしてそんな……!」
らしくない弱音を聞いて戸惑う。
アルキメデスはいつだって落ち着いていた。
初めてオルガノ伯爵夫妻が顔合わせの場に彼を連れて来たときだって、顔色一つ変えずに未来の花嫁を迎えた。
結婚式を挙げた夜、初夜を待つエウレカに白い結婚だと言い渡したあの時だって。アルキメデスだけは「そんな行為に何の意味があるんだ」と突き放すみたいに冷静だった。
いつだって、どんなときだって。
「エウレカ、君に二つ伝えたいことがある」
アルキメデスは真っ直ぐな目をこちらに向ける。
こんなに長く彼の目を見たのは初めてだろう。
「まず、何度も否定したが私に再婚の予定はない。何を吹き込まれたのか分からないが、ラウラは私の隊から除隊するように進言した」
「えっ……?」
驚くエウレカに割り込む隙は与えずに、アルキメデスは話続ける。
「次に、念のため伝えておくが……君を遠征に連れて行くつもりはない。ビヨルクに残って、この屋敷で暮らしてほしい」
「次は何年待てば良いのですか?」
飛び出した質問に夫は口を閉ざした。
我ながら意地悪なことを聞いている自覚はある。
エウレカは席から立ち上がり、アルキメデスの隣へと歩み寄った。見開かれた目を見下ろして、上下する喉の突起を眺める。
「私は18でオルガノ伯爵家へ嫁いで来ました。5年の月日が流れたのはお互い様なのですよ」
「分かっている。だから私は……」
「分かっていません」
胸元のボタンを外すと、ひんやりとした空気が直接肌に触れた。相変わらず息は詰まるけれど、幾分かマシになった気がする。
「貴方が戦地で功績を積み、名を馳せている間に、残された私はただ年を重ねていきます。周りがどんどん生活を変えていくのを見届けながら、私は古い絵のようにここで待つのです」
何を分かっているのか。
5年間、生死すら教えてくれなかったのに。
エウレカは困惑するアルキメデスの手を取って、自分の胸元へと誘った。ぴたりと肌を重ねれば、夫の顔に緊張が走る。
「生きているんです、この通り」
「エウレカ……!」
「貴方が愛さないと決めたお飾りの妻は、生身の人間です。いつでも気が向いたときに帰れば良いとお考えでしたら、間違いですよ」
何も言い返さないアルキメデスの手を自分から離して、エウレカは再び着席する。大胆な行動をしたと反省しつつ、口を開いた。
「お伝えしたいのは、つまり……私の価値についてです。この結婚が何色でも構いませんが、貴方がここへ戻るたびに私は老いていくでしょう」
それだけは分かってほしいのです、と言って自重気味に微笑むと、アルキメデスは静かに頷いた。
一つ訂正させてくれ、という申し出にエウレカは夫の目を見据える。今日ほど二人が互いを見つめた日はないかもしれないと思いながら。
「君は今も変わらない。少なくとも、私にとっての価値は5年前も今も変わっていない」
「……無価値だと?」
怒気に気付いたのか、アルキメデスは首を横に振った。
「とにかく、安全な場所でいてほしいんだ」
「ならば、手紙ぐらいは寄越してください」
食い気味に言い返すと、夫は頬を掻きながら「善処はする」と答えた。エウレカにとって十分な回答ではなかったが、ひとまず及第点ということで、アルキメデスは翌週には新たな戦地へ旅立った。




