16 day12
アルキメデスがその後どうしたのか知らない。
置き去りになったエウレカは彼の読めない行動に辟易していたし、離縁を待つだけの今の状況にも疲れ果てていた。
これ以上何をすれば良いのだろう。
夫はエウレカに何を望んでいるのか。
避けていたわけではないが、夜になっても夕食の場でエウレカはアルキメデスの姿を見なかった。まだ帰っていないのかもしれないし、敢えて顔を合わせるのを避けているのかもしれない。
エウレカは湯浴みをして、いつものように本を少しだけ読んだ。長い文章はほどよい眠気を与えてくれるから、気付けば意識を手放していた。
「おはようございます、若奥様。ルーヴェン伯爵家のアイザック様がいらっしゃっています」
「え、こんな時間に?」
朝の挨拶を終えるや否や、そう知らせるアリーシャを思わず二度見する。時計はまだ朝の七時前だ。いくら近親者といえども、訪問するには失礼な時間ではないか。
「お義父様たちは?」
「食堂でアイザック様を交えて談笑中です」
「……分かったわ」
義父母がこういったことに寛容なタイプで良かったと思う一方で、どうして彼らの朗らかさが息子に遺伝しなかったのかと首を傾げる。
アルキメデスがその場にいるとは思えない。
おそらく自室で過ごしているのだろう。
「おはようございます」
案の定、食堂にはオルガノ伯爵夫妻と兄であるアイザックの姿しか見えなかった。「近くを通る都合があったから」と説明する兄の顔が、にわかに強張っていることに気付く。
エウレカは黙々と食事を摂り、アイザックに二人で話をしたいと持ち掛けた。
何かを耳にしたのかもしれない。
アルキメデスの目が覚めて、彼がいつも通りの冷血人間に変わったという報告だったり、夫婦仲が冷め切っているという話を。
緊張しながらエウレカは兄を自分の部屋へと案内した。突然の訪問だったから片付いてはいないものの、外で大声で話すよりは良い。
「どうかされましたか?」
エウレカの方から切り出すと、アイザックは珍しく迷いのある顔で俯いた。
「お前になんと伝えれば良いか……」
「お義父様たちから聞いたのですか?ご心配には及びません、私たちは……」
「いや、この話は王宮に勤める知り合いに聞いた」
「え?」
驚くエウレカの前でアイザックが頭を抱える。
彼がここまで思い悩むとは、いったい何事なのだろう。興味を持って続く言葉を待つエウレカの目を見据えて、兄は口を開いた。
「アルキメデスの次の出征が決まったらしい」
エウレカは息を呑む。
いすれ訪れるだろうと身構えていたこのときが、こんなに早く訪れるなんて。
夫はすでに知っているのだろうか。
きっと、伯爵夫妻もショックを受けたに違いない。
「そうですか……軍人ですものね」
「海賊が荒らす南の海域に派遣されるようだ。戻って来る可能性の方が低い死地だと聞いた。指揮を取るのは階級が上の者だが、実力を買われてアルキメデスも隊に呼ばれたと」
「期待されているなら仕方ないですね。彼は喜んで向かうでしょう。そういう方ですから」
エウレカは口元に笑顔を浮かべて頷く。
戦地を駆け回る夫の姿は容易に想像できる。
相手が蛮族であろうと、敵軍であろうと、はたまた海を荒らす海賊であろうと。アルキメデスは嬉々として立ち向かうだろう。戦場こそが彼の生きる場所なのだから。
いつの日か薬師が言っていたことは本当だ。
戻らない夫の私生活を疑うような小心者に、軍人の妻は務まらない。愛人がどうのと勘繰っている間も、彼は国のために戦っているのだ。
「……離縁したいと伝えたんです」
ぽつりと呟いた言葉にアイザックは目を見張る。
「待つだけの妻でいることが耐えられず、ルーヴェンとオルガノの間で結ばれた契約婚とはいえ、私は自分の幸せを考えてしまいました」
「お前は間違っていない。夫の務めも果たさずに戦地へ向かった男だ。愛想を尽かされても仕方がないだろう」
苦々しい顔でそう答えた兄が、「だが」と言ったきり口を閉ざすので、エウレカは続きを促すように身体を向けた。
アイザックは迷うように視線を動かして、やがて長い息を吐いた。乱雑に髪を掻き上げて、エウレカの目を見据える。
「だが、あの男は嘘を吐かない」
「……え?」
すぐに惚れ薬のことが頭を過ぎる。
兄は夫が薬のせいで変な気を起こしていたことを知らない。タランタで彼が見せたのは、幻想に近い仮初の姿。
伝えようと一歩踏み出したエウレカを制止して、アイザックは自分に言い聞かせるように頷く。
「アルキメデスはお前を愛しているんだ。それだけは分かってやってほしい」
何故か理解した風な顔でそんなことを言い出す兄を前に、エウレカはますます困惑する。
相入れない関係だった夫をなぜアイザックが庇うような発言をするのか。入り乱れる思考の中で理解できたのは、アルキメデスがまたエウレカの元を去るという事実だけだった。




