第二十四話
「ねえ……僕ひとりで戻れる自信、あんまりないんだけど……大丈夫かな」
ズボンを引いて何かを伝えようとしてきた“木”と手を繋ぎ、タケルは森の奥へと歩いていた。
景色は似たような木立が続き、進めば進むほど、テントから離れていく感覚だけがはっきりしてくる。
胸の奥に、小さな不安が芽を出しかけた、そのときだった。
“木”が、ふいに足を止める。
手を繋いだままのタケルも同じように立ち止まり、どうしたのかと視線を向けると“木”は今まで歩いてきた道の方を振り返り、空いているほうの手を大きく振りかざした。
――次の瞬間。
「……すごい……。君、すごい木だったんだね」
“木”の動きに呼応するように、森の景色が静かに、けれど確かに変わっていく。
不規則に立ち並んでいた木々が、まるで意思を持ったかのように左右へと退き、一本の道を形づくった。
その先。
吹き抜けのように開けた森の向こうに、テントを張ったあの場所――近くにそびえる巨大な岩山の姿が、はっきりと見えていた。
「あそこまで戻れるなら……安心だよ。
心配かけてごめんね、じゃあ、もう少し先に進もうか」
そう言って微笑むと、“木”は褒められたのが嬉しいのか、それとも照れているのか、俯いてもじもじと身を揺らす。
タケルはその様子に思わず頬を緩め、頭から生い茂る葉を、そっと、優しく撫でた。
一人と一本。
再び手を繋ぎ、二つの足音は静かに重なり合いながら、森の奥へと歩みを進めていく。
しばらく歩いているうちに、タケルは森の空気に、かすかな甘い香りが混じっていることに気づいた。
「……まるで、果樹園の真ん中にでもいるみたいだ」
その言葉に応えるように、“木”はふいに立ち止まり、タケルと繋いでいた手を離す。
そして、そのまま一本の木の幹へと手を伸ばした――その瞬間。
「ん……? どうしたの……って、うわぁ!!」
視界が、突然緑一色に覆われる。
頭上から伸びてきた枝に、びっしりと茂った葉が揺れていたのだと気づくのに、ほんの一拍遅れた。
慌ててしゃがみ込み、四つん這いになって“木”の姿を探す。
すると、目の前にすっと差し出されたのは、桃のような丸い果実だった。
「……無事だったんだね。よかった……」
何事もなかったかのように現れた“木”を、思わず抱きしめる。
その腕の中で、タケルは差し出された果実に目を落とし、ようやくここまで連れてこられた理由を理解し始めていた。
「……もしかして。これを、食べさせたくて連れてきてくれたの?」
「……」
“木”は言葉を返さず、ほんのりと樹皮を赤く染める。
落とさないよう両手で果実を受け取り、そっと香りを嗅ぐと、見た目どおり、甘くやわらかな桃の匂いがした。
「ありがとう。じゃあ……いただきます」
一口かじると、果肉とともに瑞々しい果汁が溢れ出し、思わず口元から零れてしまう。
「すっごく美味しい……! あ、こぼしちゃった。ちょっと恥ずかしいね」
口元を拭いながら笑うと、“木”も両手を口元に添えるようにして、くすくすと小さく揺れた。
あっという間に一つを食べ終えると、“木”はまた幹に手を伸ばす。
頭上から枝が静かに降りてきて、タケルの目の前で止まる。そこには、先ほどと同じ果実が、もう一つ実っていた。
「……もう一つ、もらっていいのかな。
さっきも、こうやって採ってくれたんだね」
問いかけに、“木”は小さく頷く。
森に道を作る不思議な力。
そして、空腹の自分に果実を差し出してくれる、優しい心。
(……皆のところに戻ったら、この不思議な出逢いを話して聞かせたいな)
隣でちょこんと座る“木”を見つめながら、タケルの胸は静かに温まっていく。
そのとき。
二人の周囲を、一陣の風が、さっと吹き抜けた。
吹き抜けた風の冷たさに、タケルは思わず息を詰めた。
その隣で、“木”が静かに立ち上がる。
「……どうしたの?」
問いかけにも答えず、“木”はその手を高く振り上げた。
すると、森の木々がざわめき、帰路を示すかのように左右へと道を開き始める。
何も語らぬまま、“木”は翡翠色の大きな瞳で、まっすぐタケルを見つめていた。
「……これって、帰れってこと?
急にどうしたんだよ。もし、僕が何か気に障ることをしたなら……謝る」
態度の急変に戸惑いながらも、タケルは必死に言葉を紡ぐ。
けれど、その瞳に宿る意思は揺るがず、固いままだった。
それ以上、何も言えず。
タケルは静かに立ち上がり、示された帰り道を歩き始める。
背中が、木立の向こうへ消えていく。
――その瞬間。
彼の姿が完全に見えなくなると、“彼女”は弾かれたようにその場を駆け出した。
一刻も早く辿り着くために。
周囲の木々に道を譲らせ、案内する風とともに森を駆け抜ける。
そして、目的の場所に辿り着いたとき――
耳に飛び込んできたのは、下卑た笑い声だった。
「さすがはシュバルツさんだな。
言われた通りにしてたら、本当に出てきやがったぜ」
「よく言うぜ。
“夜の世界にしか見つからないもの”なんて、疑ってたじゃねぇか」
「うるせぇな。
変な薬まで使わなきゃ、こんな夜中まで起きてられねぇんだ。分かるわけねぇだろ」
「まあな……こんな依頼じゃなきゃ、やりたくねぇよ。
――おい、あんまり暴れんな!!」
ごろつきのような風体の男が二人。
足元で激しく抵抗する、人の姿をした“木”を押さえつけていた。
その“木”は、男たちと変わらぬ背丈。
頭部から伸びた枝の先には、真っ赤な葉が生い茂り、そこには美しい黄色の果実が実っている。
「おい、大人しくしろって。
全部取るわけじゃねぇんだ……まあ、ほとんど貰うけどな」
「これがそんなに価値のある素材かねぇ。
悪いが、これも陣営の依頼なんだわ」
必死に抵抗する“木”。
それを力ずくで押さえ込もうとする二人の男。
死角となる木の陰から、その光景を目にした“彼女”は、胸を締めつけられるような焦燥に駆られた。
助けなければ。
そう思った瞬間。
――足元で、枝が小さく鳴った。
はっとして振り返った、その時にはもう遅い。
背後に迫っていた人影に、強く抱きかかえられていた。




