第二十一話
「はい……知ってます。カロリーバーですよね」
イリナの掌から受け取った包みは、見慣れていたはずなのに、指先にひどく懐かしい質感を残した。
タケルはしばらく視線を落とし、遠い日の棚の並びを思い出すように眺めていた。
「……そう。私、昔から好き嫌いが激しくてね。食べるっていえば、ずっとこればかりだった」
「うんうん、分かりますよ。栄養価はもちろん、最近は味も研究されてて美味しいんですよね。特に僕、ハニーフルーツ味が好きで……一回どれくらい食べられるか試そうかと思ったことが――」
言い終わる前に、イリナの手がタケルの両肩をがしっと掴んだ。焚き火の光が揺れ、その影が地面に跳ねる。
「……ストップ。ちょっと早口すぎ。怖い。それにこれ、メープル味だから」
「……ああ、そうなんですね」
しゅんと肩を落としたタケルの頭に、イリナの手がそっと触れた。指先の動きが、やけに優しく、そしてどこか決意めいた硬さを帯びている。
「……好き嫌いは、だめ。お姉ちゃんは許さないよ」
(えぇぇぇ……。なんて自分勝手なんだ……)
「……それで、このカロリーバー、どうしたんですか?」
前髪が影を落としているせいで、イリナの表情はいつも以上に読み取りづらい。
けれど、言おうとして言葉を飲み込むような、そんな小さな逡巡がタケルには見えていた。
「……他の皆には、まだ秘密にしておいてほしい」
「……はい」
タケルの返事を聞いた瞬間、イリナは迷いを断ち切るように、静かに口を開いた。
この世界へ喚ばれたとき、彼女の身体に“元の世界”に結びつく妙なスキルが芽生えていたこと。
アナスタシアにそれを知られ、「その力で助けてほしい」と頼まれた時、胸の奥が少しだけ誇らしくなったこと。
そして、気がつけばポケットに、いつも食べていたカロリーバーが入っていたこと。
……そして――
「コピー?」
「……うん。複製できるものと、できないものがあるみたい。でも、この力がたぶん……私をR+にしてる理由。
アナスタシア以外、誰にも言ってない。みんな知らないはず。
そのカロリーバーは……コピーしたやつ。でも品質は本物と変わらない」
タケルは手の中のカロリーバーをそっと転がす。
どう見たって普通の市販品で、むしろ今すぐ開けて齧りたい誘惑が湧き上がるほどだった。
「……食べてみる?」
見入っていたタケルがハッと顔を上げる。
焚き火の光が揺れ、イリナの淡金色の髪を柔らかく縁取り、影に隠れているはずの瞳が、まっすぐこちらを射抜いているように思えた。
そして、その口元が――かすかに、妖しく笑っているように見えた。
イリナ・ヴェレシェンコ。
その名を聞いたときは人違いだと思った。けれど――おそらく、本物なのだろう。
元の世界に紐づいた能力を授かり、その能力はアナスタシアに認められている。
噂が真実なら、彼女は“東欧の悪魔”。
母国の内乱を収めるという大義名分のもと、生物兵器を開発し、その後はそれを他国にも流出した。
快楽性の薬物まで大量に生み出し、国際指名手配までされていたという人物。
そんな私が差し出したものを、普通なら口にするわけがない。
フルネームを名乗った時、タケルは「知らない」と言いながらも、わずかに目が揺れた。
私はその一瞬の変化を誰より見逃さない。奪われ、裏切られ続けた日々の中で身につけてしまった、嫌なほど鋭い勘。
けれど彼は、その反応をすぐに飲み込み、まるで暗示のように“知らない”と言い切ってくれた。
ほんの一瞬で私を人違い扱いしてくれた。
多分、私は彼を試しているのだ。
“悪名高い異常者”とまで呼ばれた人物が差し出す食べ物を、彼は口にできるのか。
封を切らずとも、薬物を仕込むくらいは噂通りなら容易いはずだと、そう思っているだろう。
……それでも、もし一口でも信じてくれるなら。
その瞬間だけは、私は――彼を信じられる気がした。
彼の優しさも、ひそかに秘めている力も。
すべてを守りたいと、胸の奥で静かに思えた。
だから……お願い。「食べてみてくれたら、私――」
「おいひぃれす。ひはひぶりですへほほんな味でしたね」
「……え?」
タケルはすでに包みを開け終え、一本目を食べきっていた。
しかも、二本目まで頬張りながら、幸せそうにもっしゃもっしゃと噛みしめている。
呆然としているイリナの前で、タケルはまだ名残惜しそうにカロリーバーを見つめていた。
ハッと気づいたイリナはインベントリに手を入れ、もう一本取り出す。
「……おかわり、いる?」
「はい」
即答。
渡したそばからタケルはまたも一気に食べきり、続いて三本目へ手を伸ばしかける。
しかし、ふとイリナの顔を伺うと申し訳なさそうにそれを差し出した。
「ごめんなさい、僕ばかり食べてしまって。イリナさんも……半分、どうですか?」
その一言で、イリナの胸を重くしていた感情がふっとほどけた。
さっきまでの緊張が嘘のように、影が溶けてやわらかな表情が浮かぶ。
「……大丈夫。お姉ちゃんも、お腹はちゃんと満たしてるから。味には……まあ、こだわらないの」
「メープル味、嫌いなんですか?」
イリナは静かに首を振る。
「……常備してたくらい好きだったよ。でも今は……ちょっと違うかな」
「もしかして、こっちのお芋の方が好きになっちゃったとか? 僕もアビスの芋、嫌いじゃないですよ。でもたまには違う味もほしくなるんですよねぇ……」
ぽん、ぽん。
タケルが小さなリュックを軽く叩いた。
「……タケルは、今食べたカロリーバー……味、した?」
「え? そりゃもう、普通に“メープル”の味がしましたけど……」
イリナの眉が、わずかに震えた。
その表情は、悲しみとも諦めともつかなくて、タケルは息を呑む。
「……私にはね、もう、何の味か全然わからない。ただ……砂を噛んでるみたいにしか、感じないの」
説明を求めようとしたタケルの口が言葉を探すより先に、イリナがかぶせるように続ける。
「病気じゃないから……心配しないで。
きっと、この世界が“調整”してるんだと思う。元の世界のことを、思い出させないように、ね」
淡い金髪が、焚き火の揺れに合わせて影を作る。
その影の奥で、彼女の声だけが静かに落ちていく。
「……それでも私は、これが好きだったことだけは忘れたくなかった。
故郷も……あの日のことも……
私を騙して、家族の命を奪って……大勢を殺したあの連中のことも。
忘れてしまったら……何のためにここにいるのか、わからなくなるから」
そしてイリナは、焚き火の赤い光を見つめたまま、ここへ来るまでのことをゆっくりと語りはじめた。
彼女の故郷は、内乱の絶えない寒冷地の小さな貧しい村だった。
薬学の才を見抜かれ、国の研究職に就くようになってからも、家族を支えるために眠る時間さえ惜しんで働き続けていた。
ある日、内戦を終わらせるための“特殊な薬品”の研究を命じられる。
その薬品が孕む危険性を悟ったイリナは、強く反対した。
だが、両親と弟を人質に取られ、彼女は否応なく研究を続けるしかなかった。
そして――彼女の知らぬうちに、その薬品は各地で使用されていく。
故郷も例外ではなかった。父も母も弟も、その中にいた。
「……もはやお前も同罪なのだ。国のために、これからも働き続けるしか道はない。」
そう告げられた瞬間、世界がひっくり返ったようだった。
愛する家族も、生きてきた土地も、自分の手で壊してしまったようなものだ……
それでも生き延びている自分が、醜くて、どうしようもなく嫌だった。
抜け殻のように研究を続ける日々の中で、この世界からの“呼び声”が届いたとき、断る理由などどこにもなかった。
「……だから私は、他のメンバーのようにこの世界に染まるわけにはいかない。
私がしてきたことを……忘れてしまうわけにはいかないの」
焚き火の赤い光が、イリナの横顔を淡く揺らす。
その瞳は炎を見ているのか、それとももっと遠い、どこか取り返しのつかない場所を見ているのか。
ただ、砂のようなカロリーバーを噛みしめながら、彼女はこの世界の調整に抗い続けていた。
「……ごめんね……お父さん、お母さん。お金持ちになって楽をさせてあげるって、あんなに言ってたのに」
ぽつりと零れた言葉は、焚き火のはぜる音に溶けていく。
「……ごめんね……イヤル。どうしようもないお姉ちゃんで」
前髪の陰から涙が零れ落ちた。
口元へ運んだ自分の指を噛みしめるイリナの手は、火傷の痕や薬品で変色した跡がいくつも残っている。
いつの間にか手袋を外していたのだろう。噛み癖で傷だらけになった指先が、月明かりの下で痛々しく見えた。
「……ごめんなさい。みんな……」
「イリナさん!」
タケルはその手を強く掴むと、自分の指を彼女の唇にそっと押し当てた。
「大丈夫……イリナさんは、何も悪くなんかない。
だからもう、自分を傷つけないで。噛みたいなら僕の指を噛めばいい!
その痛みを……少しだけ僕に分けてください」
鈍い痛みが走り、タケルはほんの一瞬だけ息を呑む。
だが退かず、寄り添い続ける。
「……おねえひゃんを、ゆるひて……」
噛んだ指越しに漏れるその声は、幼い子どもが泣きじゃくるみたいで、何を言っているのかはっきりとは聞き取れない。
それでもタケルには、弟への謝罪なのだとすぐ分かった。
「……もういいんだよ、お姉ちゃん。
お姉ちゃんは……ずっと、すごく頑張ってきたんだから。もう、大丈夫」
噛まれている指はそのままに、もう片方の手でイリナの背を優しく叩く。
そのリズムに合わせるように、ぼんやりとした目でイリナが呟いた。
「……おねえひゃんのこと、だいひゅきだよね?」
(ん……? 弟さんに向かって言ってるんだよね……“お姉ちゃん大好き”って、どういうことだろう)
疑問が胸にひっかかりながらも、タケルが肯定してあげると、イリナはほっとしたように小さく息を吐き、そのまま彼の指を噛んだまま静かな寝息へと落ちていった。
──ほんの少しだけ、子どものような寝顔だった。
「おい……寝たか?」
低い声に振り向くと、闇の向こうから頭蓋骨がぬっと顔を出していて、タケルは思わず声を上げそうになる。
すぐにベルドだと気づき、胸を撫でおろした。
「……いつからですか?」
問いかけると、ベルドは気まずそうにテントの入口から出てきた。
「イリナが出て行った時からだよ」
焚き火の赤い光に照らされた横顔は、どこか気遣うようで、どこか痛みを知っている者のそれだった。
「そいつもさ……“過去は過去だ”って割り切れたら、もう少し楽なんだろうけどな」
そう呟きながらタケルのそばにしゃがみ込むと、眠るイリナをそっと抱き上げ、女性陣のテントへ向かう。
テントの口を閉める直前、ベルドの手がふと止まった。
「なんか……お前は、他のやつと違うな。
お前が来てから、アビスの空気が少し良くなった気がするんだよ」
「はぁ……」
「……お前になら俺も……いや、なんでもねぇ。
ほら、さっさと寝ろよ!」
ベルドがイリナを抱えてテントの奥へ消えていくと、タケルはようやくひとりきりになった。
肩の力が抜けた途端、どっと疲れが押し寄せ、さっきまで噛まれていた指のジンジンする痛みに気づく。
鈍い痛みが、あの出来事が夢ではなく現実だったことをはっきりと告げていた。
イリナにとって“元の世界”は、決して帰りたい場所ではなかった。
利用され、奪われ、すべてが崩れ落ちた場所。
それでもその世界の責任をまだ背負い続けようともがいている。
この世界に喚ばれてからも、その傷はずっと胸の内で疼き続けているのだろう。
──世界なんて大きなものを変える力は、自分にはない。
ただ、それでも。
出会い、関わり、今こうして同じ焚き火を囲んでいる人たちの「世界」なら……手を伸ばせば、何か少しだけでも変えられるのかもしれない。
食べきれずに残されたカロリーバーが一本、地面に転がっていた。
それを拾い上げてポケットへしまおうとした、その瞬間。
「カサッ」
乾いた小さな音が闇のどこかを横切った。
「ベルド……?」
呼びかけても、女性陣のテントは静まり返っている。
ラズロのテントからも気配はない。
「……気のせいか」
そんなふうに呟いて、タケルはそっと男性陣のテントに入り、横になった。
焚き火の匂いがまだ衣服にうっすら残っていて、そのまま瞼が落ちていく……。




