32 噂だってさ。
「……藝大、それは――」
晴大の父親は言葉を途中で止め、困惑したように視線を揺らした。
その前で、晴大は胸を張り、堂々と宣言する。
「東京藝術大学です!」
体育館の喧騒の中でも、その一言だけは鮮やかに響いた。
少し離れた場所で二人のやり取りを見守っていたさくらは、息を呑む。
(佐藤君……!?)
晴大は父親の顔を真っ直ぐに見つめた。
「俺はずっと、自分の将来を見つけられなかった。でも……俺の絵を綺麗だって言ってくれる人がいる。俺のことを大事に思ってくれる人がいる。だから俺は、その人たちに恩返ししたい。立派な画家になって、いつか皆んなを喜ばせたいんだ」
父親の表情は固いままだった。
「……だからって、勉強はどうするんだ。それに――大体、誰が金を出すと思っている。私は絶対に認めないぞ!」
怒鳴り声ではない。
だが、拒絶する力だけははっきりと込められていた。
晴大は小さく息を吸った。
「そう言うと思ってました。でも、大丈夫です」
「……何故だ」
「俺は、自分の金で藝大に行きます。働いて、稼いだお金で。それなら文句はないでしょう?」
「そ、そんなの、不可能だ! お前は現実を知らないから、そんなこと言えるんだ!」
父親が後ずさる。
晴大が一歩詰め寄った。
「良いですよね?」
「ぐっ……」
父親は何も言えなくなり、口を開いたまま固まった。
晴大はふっと表情を和らげた。
「じゃあ父さん、俺は行きます。……それじゃ、また」
軽く一礼して歩き出す。
父親はその背中をしばらく見送り、深くため息をついた。
***
「佐藤君!」
さくらが小走りで追いかけ、晴大が振り返る。
「あ、菊田さん」
その姿はまだシンデレラの衣装姿で、青いドレスがひときわ目を引く。
晴大は視線を逸らし気味に、ぽつりと言った。
「……似合ってます」
さくらは一瞬驚いて、それから照れ笑いを浮かべた。
「ありがとう。……佐藤君、君、カッコいいよ」
「えっ……」
「ちょっと聞いてた。さっきの話」
「……あ」
晴大は耳まで赤くしながら、小さく告げる。
「その……俺の絵を褒めてくれたのって菊田さん達のことで」
「うん。分かってたよ」
さくらは柔らかく笑った。
晴大もつられて、少し恥ずかしそうに微笑む。
「そっか……なんか恥ずかしいな」
気まずさをほぐすように、さくらが話題を変える。
「あ、そういえば! 私の絵、描いてって言ってたよね。どうなった?」
「あぁ、見ます?」
「見たい!」
満面の笑顔。
晴大は自然と胸が温かくなるのを感じた。
「じゃあ……美術室に行っててください。俺、教室に行ってスケッチブック取ってきます」
「了解!」
二人はそこで別れた。
***
晴大が教室に入ると、クラスメイトたちは疲れの出始めた身体を椅子にもたれさせ、思い思いに休んでいた。
晴大は人を避けながら自分の鞄へ向かう。
そのとき、近くの席から何気ない会話が聞こえた。
「さくらちゃんってさ、なんで転校して来たんだろ?」
「あー知らない。でもさ、前の学校で東堂結衣と喧嘩したって話じゃん?」
「え、何それ!」
「ネットにあったよ。東堂結衣がさくらちゃんを虐めてたって」
(……ネットの噂か)
晴大は“ただの憶測”として聞き流そうとした。
それでも、胸のどこかがざわつく。
頭を振り、気持ちを切り替えてスケッチブックを取り出す。
そして美術室へ向かった。
***
美術室の扉を静かに開けると、制服姿のさくらが椅子に座り、スマホの画面を見つめていた。
「菊田さん」
晴大が声をかける。
さくらがゆっくり振り向いた。
その表情は、ほんの少しだけ暗かった。




