第9話 17歳の私(わたくし)、本編開始です
私、17歳になりました。
つまり、『ときめきブック』本編開始です。
長かったようで、短かった7年間。
私、フライト・ブラックは、たいへんよく準備しました。
まず、闇属性の魔力制御。
幼い頃は身体が弱く、王都から離れた公爵領の別邸で療養していた私ですが、今では魔力と身体の釣り合いも取れています。むしろ、闇属性の扱いについては同年代の中でもかなり上位でしょう。
もちろん、闇属性は悪の属性ではありません。
精神、記憶、影、契約、感情の深層。そういったものに触れやすい属性であるだけです。
ただし、誤解されやすい。それは理解しています。
ですから、私は誰よりも優雅に、誰よりも理性的に、誰よりも完璧に振る舞わなければなりません。
次に、社交。
ブラック公爵家は、たびたび王妃を輩出してきた名門です。ニケル・アクチイド殿下の祖母は、私の大叔母にあたる元王妃。つまりニケル殿下と私は再従兄弟という関係です。
私は生まれた時から、ニケル殿下の婚約者として家同士に認められてきました。王妃候補としての教育は、厳しく、細かく、そして実用的でした。
誰がどの派閥に属しているか。誰の言葉が誰に届くか。どこで微笑み、どこで沈黙し、どこで一歩引くべきか。
10歳までのフライトは、すでにそれを学んでいました。そこにすみれとしての記憶と、『ときめきブック』の攻略知識が加わった。
つまり、今の私は強い。とても強い。
そして最後に、攻略計画。
アイリス・ホワイスとの友情エンド。
フッケル・ダンクステンの救済。
恋愛ルートの回避。
攻略対象者たちとの適切な距離感の維持。
すみれとしての記憶を思い出してからの7年間、私は完璧に準備してきました。もちろん、多少の誤算はあります。
たとえば、カリウス・パラジム。
彼の風魔法は、私の闇属性とよく共鳴します。私が近くにいると、風の精度が上がる。それ自体は良いことです。
ただし、本人の言動に少々問題があります。
「フライト様」
アクチイド王立魔法学園の正門前。
新入生たちが緊張と期待に満ちた顔で集まる中、風が私の髪をそっと撫でました。声だけで誰かわかります。
カリウス・パラジム。
7年前は不安定な風に怯えていた少年も、今では辺境伯令息らしい精悍な青年になりました。
風属性の魔力をまとった立ち姿は、軽やかで、鋭い。けれど、私を見る目は昔と少しも変わっていません。
いえ。少しは変わってほしかったです。
「ごきげんよう、カリウス様」
「お会いしたかったです、フライト様」
「3日前にお会いしましたわ」
「3日も前です」
カリウスは真剣な顔で、私の周囲を見回しました。
「人が多いですね」
「入学式ですから」
「フライト様に近づく者も多いでしょう」
「同級生ですもの」
「俺が見ています」
「見なくてよろしい」
「俺の風は、フライト様に害意を向ける者を逃しません」
「逃してください」
「害意がなければ逃します」
「そういう問題ではありません」
会話が7年前からあまり変わっていません。
カリウスは、この7年で見事に成長しました。風魔法も、礼儀も、武術も、判断力も。
ただ、私への忠誠心だけは、少々育ちすぎました。
本人は恋愛感情だと言いません。婚約者の座を望むとも言いません。
私のためにだけに風を使いたい。私の周囲から危険を遠ざけたい。私が望むなら、どこまでも行く。それはもう、忠誠を通り越して信仰に近い。
好感度が適度に高いのは良いことです。
少しばかり、重すぎるだけで。
「カリウス様」
「はい」
「今日から学園生活が始まります。あなたは辺境伯家の令息として、多くの方と交流を持つべきですわ」
「もちろんです」
カリウスは真面目にうなずきました。
「フライト様に近づく者を見極めるためにも、交友は広く持つべきだと考えています」
「目的が違います」
「違いますか?」
「違います」
私がはっきり言うと、カリウスは少し考え込みました。
「では、俺自身のために交友を持ちます」
「ええ。そうなさって」
「フライト様がそれを望むなら」
「またそれですわ」
7年かけても、結局ここに戻ってきます。
私は密かにため息をのみ込みました。攻略対象者との適切な距離感。難しい。とても難しい。
「フライト」
今度は、背後から静かな声がしました。
ティタン・ブラックです。
7年前にブラック公爵家へ迎えられた遠縁の少年は、今ではすっかり公爵家の跡取り候補らしくなりました。
水属性らしい落ち着いた魔力。無駄のない所作。穏やかで、礼儀正しく、感情を荒らげない。
表面上は、たいへん優秀です。表面上は。
「ティタン。荷物の確認は終わりましたの?」
「はい。フライトの部屋に運ばれるものは確認済みです」
「わたくしの荷物ではなく、ご自分の荷物を確認してくださいませ」
「僕のものは少ないので」
「少ないのは問題ですわ」
「フライトの必要なものが揃っていれば、僕は困りません」
「あなたが困ってください」
ティタンは静かに微笑みました。
「フライトがそう望むなら」
「望んでいません」
「では、困らないようにします」
「そうしてください」
ティタンは7年で、ブラック家の中に自分の立場を築きました。公爵家の跡取り候補としての教育も受け、お父様からも一定の信頼を得ています。
けれど、彼の中で一番深い場所は、いまだに私へ向いている気がします。
ティタンは、私が王家へ嫁ぐ可能性が高いことを理解しています。ニケル殿下という婚約者がいることも、当然わかっています。
それでも彼は言うのです。私が戻る場所を守る、と。私が戻らなくても、私の場所は必要だ、と。
……重い。
水は深い。そして時々、底が見えません。
「ティタン、あなたも今日から学園の生徒です。ブラック家のことだけではなく、ご自分の学びを優先なさって」
「はい」
「本当にわかっています?」
「はい。僕が優秀であれば、フライトの戻る場所も安定します」
「またわたくしに戻りましたわね」
「僕の学びは、僕のためでもあります」
「それならよろしいです」
「フライトのための僕を、より良くするために」
「よくありません」
カリウスが隣でうなずいています。
「わかる。自分を鍛えることは、フライト様のためになる」
「カリウス様まで同意しないでください」
「俺たちは方向性が違うだけで、目的は同じです」
「同じにしないで」
なぜでしょう。7年前より成長したはずなのに、二人の根本部分は変わっていません。むしろ、言葉が整った分だけ悪化している気すらします。
とはいえ、『ときめきブック』本編開始時点で、この二人はフライトへの好感度が高い攻略対象者です。
これは想定内。少し重いだけ。少し。……少しでしょうか。
いえ、問題ありません。
私は主人公ですから。
そう心の中で確認していると、周囲のざわめきが変わりました。
人の波が、自然と左右に分かれていきます。
誰が来たのかは、見なくてもわかりました。
ニケル・アクチイド王太子殿下。
私の婚約者です。
6年半前、王宮で初めて顔を合わせた王太子殿下は、穏やかな顔で人を試す、たいへん面倒な少年でした。
17歳になった今、その面倒さは洗練されています。
淡い金色の髪。落ち着いた瞳。土属性らしい安定した魔力。王族としての気品。そして、穏やかな笑みの奥に隠された、底の見えない観察眼。
ニケル殿下は、近づいてくるだけで場を整えます。
人々が一歩引く。視線が集まる。誰もが自分の姿勢を正す。
「フライト」
「ごきげんよう、ニケル殿下」
私は礼を取りました。
ニケル殿下は微笑みます。
「今日も完璧だね」
「殿下にそう見えるよう努めております」
「僕にだけ?」
「必要な方には、どなたにでも」
「なるほど。相変わらず隙がない」
「隙があっては、殿下に拾われますもの」
ニケル殿下は楽しそうに笑いました。
「いくつになっても、君は面白い」
「殿下も相変わらずですわ」
「それは褒め言葉?」
「社交です」
「正直だ」
この会話をすると、周囲はたいてい静かになります。
ニケル殿下は、カリウスやティタンとは違います。
彼は私を救いとして見ない。
居場所としても見ない。
盤面を共に見る相手として見ている。それは楽でもあり、非常に厄介でもあります。
「カリウス、ティタン」
ニケル殿下は二人にも視線を向けました。
「君たちも、相変わらずフライトの近くにいるんだね」
カリウスはまっすぐ答えました。
「必要があれば、俺が守ります」
ティタンは静かに言いました。
「必要がなくても、僕は近くにいます」
ニケル殿下は笑いました。
「本当に相変わらずだ」
やめてください。
その笑い方は、何かを観察している時の笑い方です。
「ニケル殿下」
「何かな、フライト」
「二人は、わたくしの友人であり家族ですわ」
「友人と家族にしては、少し熱心だけどね」
「信頼が厚いのです」
「そういうことにしておこうか」
「そういうことです」
ニケル殿下は、私の横へ自然に並びました。婚約者として、当然の位置。
その瞬間、カリウスの風がわずかに強くなりました。
「カリウス」
私はすぐに名前を呼びます。
カリウスは、はっとしたように風を収めました。
「申し訳ありません、フライト様」
「殿下に風を向けてはいけません」
「向けたつもりはありません」
「では?」
「フライト様と殿下の間の空気が、近すぎたので」
不敬です。かなり不敬です。
ニケル殿下は楽しそうに笑っていますが、周囲の生徒たちは明らかに凍りました。
ティタンも静かに言いました。
「カリウス、殿下の前で風を揺らすのはよくない」
「わかっている」
「揺らすなら、見えない程度にすべきだ」
「ティタン?」
ティタンは涼しい顔でこちらを見ました。
「冗談です」
「本当に?」
「半分ほど」
「半分も本気なのですね」
ニケル殿下が声を立てて笑いました。
「君たちは本当に、フライトのことになると遠慮がないね」
カリウスは表情を変えません。
「殿下であっても、フライト様を困らせるなら遠慮はしません」
「カリウス様」
「困らせていないなら、何もしません」
ティタンも静かに続けました。
「フライトが望まないことは、僕も望みません」
「ティタン」
「ただ、フライトが我慢していることと、望んでいることは違います」
周囲の空気がさらに固まりました。
ニケル殿下だけが、心底面白そうにしています。
「なるほど。婚約者としては、なかなか厳しい監視付きだ」
「監視ではありません」
カリウスが言いました。
「見守りです」
「似ているね」
「違います」
「どこが?」
「フライト様が嫌がれば、やめます」
そう言って、カリウスは私を見ました。
ティタンも私を見ています。
ニケル殿下まで、私を見ています。
なぜ全員、私を見るのでしょう。
私は扇を開いて、口元を隠しました。
「……では、今はやめてくださいませ」
「はい」
「承知しました」
二人は即答しました。素直です。
ニケル殿下は、笑いを含んだ声で言いました。
「よかったね、フライト。君の言葉はよく効く」
「殿下」
「褒めているよ」
「社交として受け取っておきます」
「正直だ」
やはり王太子殿下ルートは危険です。この方は、こちらの状況を面白がっている。
王太子殿下ルートは、最重要管理対象。
絶対に、最重要管理対象です。




