第8話 10歳の私(わたくし)、王太子殿下は最重要管理対象としました
ニケル・アクチイド王太子殿下との顔合わせは、無事に終わりました。
無事。ええ、無事です。
少なくとも、誰も倒れていません。誰も泣いていません。誰も魔力を暴走させていません。
ですから、無事と言ってよいでしょう。ただし、少々疲れました。
王宮の応接室を辞した後、私はお父様に伴われて廊下を歩きました。
磨き上げられた床。壁に掛けられた王族の肖像画。控える侍従たちの視線。どこを歩いても、自分が何者であるかを忘れさせてくれない場所です。
王宮とは、そういう場所なのでしょう。
お父様はしばらく黙っていました。
私も黙っていました。
こちらから不用意に話すべきではないと思ったからです。
すると、王宮を出て馬車へ向かう直前、お父様が静かに口を開きました。
「フライト」
「はい、お父様」
「ニケル殿下をどう見た」
お父様の声に意地の悪さはありません。ただ、ブラック公爵家の娘として、そして王太子殿下の婚約者として、私が何を見たのかを確認しているだけのようです。
私は少し考えてから答えました。
「たいへん聡明な方だと思いました」
「それだけか」
「穏やかに見えて、こちらの反応をよくご覧になっています。言葉の選び方も、こちらの受け取り方も、すべて確認していらっしゃいました」
お父様は、わずかに目を細めました。
「怖いと思ったか」
「怖い、とは少し違います」
私は正直に答えました。
「ただ、油断してよい方ではないと思いました」
「そうだ」
お父様は短く言いました。
「殿下は10歳にしては、かなり人を見る。王太子としては頼もしいことだが、婚約者として向き合うには難しい相手でもある」
「はい」
「だが、おまえもよく返した」
「ありがとうございます」
「ただし」
お父様の声が、少しだけ低くなります。
「最後の『社交です』は、いささか正直すぎる」
「……はい」
たいへん正しいご指摘でした。
私も言った瞬間に、少しだけしまったと思いました。
ただ、ニケル殿下は笑っていました。怒った様子はありませんでした。むしろ、面白がっていたように見えます。
ただ、それはそれで問題ですね。
王太子殿下に面白がられる。
攻略対象者としては好感度上昇の気配。婚約者としては関係良好の兆し。王妃候補としては悪くない結果。
しかし、ニケル殿下ルートに入りたくない私としては、少々困ります。いえ、とても困ります。
「以後、気をつけます」
「ああ」
お父様はそれ以上責めませんでした。
その代わり、馬車へ乗る前に、ふと私を見ました。
「疲れたか」
「少しだけ」
そう答えると、お父様はわずかに驚いたような顔をしました。
「珍しいな。正直に言うとは」
「……そうでしょうか」
「そうだ」
お父様は短く言いました。
「今日は早めに休みなさい」
「はい」
父親らしい言葉でした。公爵家当主としてではなく、ただ娘を気遣う声。
私は礼を取り、馬車へ乗りました。
王都の本邸へ戻る馬車には、ティタンも同乗していました。
王宮内での顔合わせには同席していません。けれど、控えの間で待っていたため、私が戻ってきた時の様子は見ていたのでしょう。
ティタンは、いつも通り静かでした。
いえ。いつもより、さらに静かでした。
私は座席に腰を下ろし、向かいに座るティタンを見ました。
「ティタン」
「はい」
「何か言いたいことがありますか?」
「あります」
今日はあるのですね。
「どうぞ」
ティタンは、しばらく私を見ていました。水のような目が、静かに揺れています。
「フライトは、ニケル殿下に似ている気がしました」
私は少し瞬きしました。
「わたくしが?」
「はい」
「あなたは、殿下とわたくしの会話を見ていませんでしょう?」
「見ていません」
「では、なぜそう思いましたの?」
「フライトが戻ってきた時の顔です」
「顔?」
「笑っていました。でも、少しも気を抜いていませんでした」
ティタンは静かに続けました。
「ニケル殿下も、控えの間を通られた時、笑っていました。でも、周りの空気が少しも緩んでいませんでした」
「……よく見ていますのね」
「フライトのことなので」
「そこでわたくしに戻りますの?」
「はい」
ティタンは迷いなくうなずきました。
「だから、似ていると思いました。笑っていても、全部を渡さないところが」
ティタンは窓の外を見たまま言いました。
「けれど、違うところもあります」
「何がですの?」
「ニケル殿下は、フライトを試す方のように見えました」
静かな声でした。
「フライトは、誰かを壊さないようにいつも言葉を選んでいます…………僕は、そちらの方が好きです」
ティタンは、私を見ます。
「フライトに婚約者がいても、その方が王太子殿下でも、僕はフライトのそばにいます」
「それは以前も聞きましたわ」
「何度でも言います」
「なぜ?」
「フライトが忘れないように」
またです。また、重い。
けれど、不思議と嫌ではありませんでした。困る。困るけれど、嫌ではない。
それがまた困ります。
私は小さく息を吐きました。
「忘れませんわ」
「本当ですか」
「ええ」
「では、僕も覚えておきます」
ティタンはそう言って、静かに微笑みました。その笑みは、初めて会った頃より少しだけ穏やかでした。
ブラック家に来たばかりの彼は、どこに立てばよいのかわからない顔をしていました。今は、少なくとも自分の足元を確かめようとしている。
その足元が、なぜか私の方へ少し傾いているのは問題ですが。それでも、前よりはよい傾向でしょう。
王都の本邸へ戻った夜。
私は侍女を下がらせ、自室で一人、『ときめきブック攻略計画』のノートを開きました。
これまでのページに、新しく項目を足します。
ニケル・アクチイド。
土属性。王太子殿下。婚約者。攻略対象者。腹黒。観察力が高い。言葉尻を拾う。試すような質問をする。10歳にして会話が10歳ではない。危険。非常に危険。
私は少し考えて、さらに一行書き足しました。
フライトと同等、あるいはそれ以上に盤面を見る。
ペンを置き、私は椅子にもたれました。
カリウスは、私を救いのように見る。
ティタンは、私を居場所のように見る。
ニケル殿下は、私を対戦相手のように見る。
三者三様。たいへん面倒です。
けれど、こうしてページが増えていく。
カリウスのページ。ティタンのページ。ニケル殿下のページ。
私の本は、順調に埋まっている。
そう考えれば、悪いことではありません。
カリウスとティタンの好感度は高い。ニケル殿下との婚約関係も、初対面としては悪くない。このまま、誰の恋愛ルートにも入りすぎず、アイリスとの友情エンドへ向かえばいい。
やるべきことは明確です。
私は主人公ですから。
ノートを閉じる直前、ふとニケル殿下の言葉を思い出しました。
「君は、僕と結婚したい?」意地の悪い質問です。
今の私には、まだ答えはありません。
けれど、答えが必要になる頃には、きっとすべて整えているはずです。
アイリスを学園から去らせない。フッケルも救う。恋愛エンドは避ける。カリウスとティタンは責任をもって自立させる。ニケル殿下ルートは最重要で管理する。
完璧です。
ええ。完璧なはずです。
17歳まで、あと6年半。
勝ち確……のはずです。




