第7話 10歳の私(わたくし)、王太子殿下ルートは管理対象とします
王都へ向かう馬車の中で、私は『ときめきブック攻略計画』の内容を頭の中で確認していました。
ニケル・アクチイド。
土属性。アクチイド王国の王太子殿下。私の婚約者。攻略対象者の一人。穏やかで優しく、王族らしい気品を持つ少年。
ただし、腹黒。
前世のゲーム画面の中で、ニケル殿下はいつも穏やかに笑っていました。その笑顔のまま、人を試し、言葉を拾い、相手の反応を見ていました。
そして共通ラストの断罪劇では、フライトを断罪する。
アイリス・ホワイスをいじめた罪。光属性保持者を害した罪。次期王妃候補にふさわしくないという疑惑。
その断罪劇の場で、最も好感度の高い人物がフライトをかばい、ルートが確定する。
ですが、ニケル殿下ルートだけは違います。断罪劇そのものが、ニケル殿下の仕組んだ試験。
フライトが本当に王妃となる器を持つのか。誤解と悪意の中で、誰を信じ、どう振る舞うのか。それを測るための自作自演です。
控えめに言って、非常に面倒。もう少し控えずに言えば、性格がなかなかよろしくありません。
とはいえ、王太子殿下です。無礼はできません。
ましてや婚約者です。距離を取りすぎても不自然です。
さらには攻略対象者です。近づきすぎるとルートに入ります。
危険です。たいへん危険です。
私は馬車の窓から外を見ました。
王都の城壁が見えてきます。高く、白い石壁。整えられた街道。行き交う馬車と人々。遠くに見える王宮の塔。アクチイド王国の中心。そして、『ときめきブック』本編へ続く場所。
向かいにはティタンが座っています。
本来なら、婚約者との正式な顔合わせにティタンが同行する必要はありません。けれど、今回はブラック家の跡取り候補として、王都の本邸へ移る準備も兼ねています。
……これは、ゲームの仕様なのでしょうか。
私は少しだけ考えました。
『ときめきブック』本編開始時点で、ティタンはすでにフライトの義理の兄弟としてブラック家に馴染んでいました。王都の本邸にも、王宮にも、社交界にも、当然のように出入りしていたはずです。
つまり、幼少期のどこかでティタンが王都に慣れるイベントは必要だった。今回の同行は、そのための前準備。
そう考えると、たいへん自然です。
もっとも、お父様にとってはゲームの都合などではなく、跡取り候補に王都を見せるという、ただの現実的な判断なのでしょう。
ゲームの仕様。家の都合。現実の事情。
その三つが、同じ形をしていることがある。
少しだけ不思議でした。けれど、悪い流れではありません。ティタンのページを進める機会でもあります。そう判断して、私は向かいの席に座るティタンを見ました。
ティタンは静かでした。
普段から静かですが、今日はいつもよりさらに静かです。
「ティタン」
「はい」
「何か言いたいことがありますか?」
「ありません」
「では、なぜ先ほどから黙り込んでいますの?」
「フライトは、ニケル殿下に会うんだと思っていました」
「ええ。会いますわ」
「婚約者だから」
「そうですわね」
「はい」
会話は続いているようで、全く続いていません。
ティタンは窓の外を見ました。
「僕は、王都をよく知りません」
「これから覚えればよいのです」
「王宮も、社交界も、ブラック家の本邸も」
「ええ」
「フライトは、知っているんですね」
「知識としては」
「僕は、フライトが知っている場所を、これから覚えます」
ティタンの声は静かでした。
「フライトがどこへ行っても、僕が迷わないように」
「ティタン」
「はい」
「まずは、ご自分が迷わないために覚えてくださいませ」
「はい。フライトが安心できるように、僕が迷わないようにします」
私は小さく息を吐きました。
カリウスは残してきました。
ティタンは同行しています。
どちらが安全だったのでしょう。
王都の本邸に到着し、旅装を改めたのち、先に王都へ入っていたお父様と合流しました。そして、ブラック公爵家の令嬢として、王宮へ向かうことになったのです。
王宮は、別邸とは空気が違いました。
魔力の密度。人の視線。石壁に染み込んだ歴史。すべての人間が自分の立場を意識して動いている緊張感。
幼い頃の私が療養のため王都を離れていた理由が、少しわかります。この場所は、身体の弱い子どもには息苦しい。
けれど今の私は違います。
闇属性の魔力も安定してきました。礼儀も完璧です。そして、すみれの記憶もあります。
大丈夫。私は主人公ですから。
お父様に伴われて通されたのは、王宮の小さな応接室でした。大広間ではなく、あえて小さな部屋。
正式な謁見ではなく、婚約者同士の顔合わせ。ただし、王族と公爵家の関係を示すには十分な格式。
なるほど。
相手はこちらを見ています。
どういう反応をするか。どの程度緊張するか。王妃候補としてふさわしいか。
私は呼吸を整えました。
扉が開きます。
そこにいたのは、穏やかな顔をした少年でした。
ニケル・アクチイド。
私と同じ10歳。淡い金色の髪。落ち着いた瞳。土属性らしい、揺らぎの少ない魔力。
第一印象は、穏やかで育ちの良い王太子殿下。
けれど、私は知っています。この方は、腹黒です。将来、断罪劇を自作自演する男です。
油断してはいけません。
私は礼を取りました。
「初めてお目にかかります、ニケル殿下。フライト・ブラックでございます」
ニケル殿下は、にこりと笑いました。
「会えて嬉しいよ、フライト。僕の婚約者」
穏やかな声。けれど、私を観察しています。
目線。呼吸。指先。言葉の選び方。
ただ挨拶しているのではありません。
この王太子殿下、初手から試しています。
「わたくしも、お目にかかれて光栄ですわ」
「ずっと療養していたんだってね。体調はもういいの?」
「おかげさまで、魔力も安定してまいりました」
「それはよかった。君に倒れられると、僕の婚約者がいなくなってしまう」
軽い冗談のような言い方でした。けれど、意味は軽くありません。君は僕の婚約者だ。その立場を理解しているね。そういう確認ですね。
「殿下にご心配をおかけしないよう、努めております」
「心配?」
ニケル殿下は首を傾げました。
「僕は心配しているように見えた?」
面倒ですわ。私は内心で即答しました。言葉尻を拾うのが早い。
カリウスなら真っ直ぐに受け取り、ティタンなら深く沈める言葉を、この王太子殿下は分解して返してくる。
フライト・ブラックとしての教育が警鐘を鳴らします。
この相手に、曖昧な社交辞令は危険。
「失礼いたしました。殿下のお言葉を、婚約者としてのお気遣いと受け取りました」
「なるほど。君は、受け取り方が上手だね」
「王妃候補として、そうあれと教えられておりますので」
「教えられた通りにしているだけ?」
「必要であれば」
「必要でなければ?」
にこにこしています。
10歳の会話ではありません。
私は微笑みました。
「その時は、わたくし自身で考えます」
ニケル殿下の目が、少しだけ細くなりました。笑みは変わりません。
「君は面白いね、フライト」
「恐れ入ります」
「褒め言葉だよ」
「では、ありがたく頂戴いたします」
「本当に、受け取り方が上手だ」
ニケル殿下は楽しそうに笑いました。そして、急に言いました。
「君は、僕と結婚したい?」
室内の空気が、一瞬止まりました。
お父様も、王宮側の侍従も、表情は動かしません。けれど、空気は確かに張りました。
10歳の婚約者に対する質問としては、かなり意地が悪い。
はいと答えれば、幼い恋情のように聞こえる。いいえと答えれば、婚約への不満になる。どちらでもありませんと答えれば、逃げに見える。さすがは腹黒王太子殿下です。
私は微笑みを崩しませんでした。
「わたくしが望むべきは、殿下とアクチイド王国のお役に立てる未来ですわ」
ニケル殿下は一拍置いてから、笑いました。
「質問に答えていないね」
「はい」
「認めるんだ」
「殿下のご質問は、10歳のわたくしが軽々しく答えるには、少々重すぎますわ」
「少々、なんだ」
ニケル殿下は楽しそうに目を細めました。
「では、重くなければ答える?」
「答えが必要な時が来れば」
「その時まで、僕は待てばいい?」
「殿下がお望みなら」
ニケル殿下は、しばらく私を見ていました。そして、楽しそうに言いました。
「やっぱり、君は面白い」
「殿下にそう思っていただけたなら、光栄ですわ」
「本心?」
「社交です」
言ってから、少しだけしまったと思いました。けれどニケル殿下は、声を立てて笑いました。
「正直だ」
「失礼いたしました」
「いいよ。気に入った」
ニケル殿下は、私へ手を差し出しました。
「これからよろしく、フライト」
私は、その手を取りました。
「よろしくお願いいたします、ニケル殿下」
殿下の土属性の魔力は、落ち着いていました。重く、安定していて、簡単には揺れない。けれどその奥に、こちらの足場を静かに測るようなものがありました。
魔力共鳴は、まだ起こりません。
ニケル殿下のページは、まだ開いたばかりです。
ただ、この王太子殿下は危険です。
私と同じくらい、場を見る。私と同じくらい、言葉を選ぶ。そして、私よりももっと、人を試すことに慣れている。
ニケル・アクチイド。
王太子殿下ルートは、やはり危険。最重要管理対象とします。




