第6話 10歳の私(わたくし)、王都へ向かうことになりました
すみれとしての記憶を思い出してから、半年が経ちました。
私、フライト・ブラックは、その半年をたいへん有意義に使いました。
カリウス・パラジムの風魔法の制御訓練。ティタン・ブラックがブラック家に馴染むための環境作り。『ときめきブック攻略計画』の追記。17歳のアクチイド王立魔法学園入学までに必要な準備の整理。そして、王妃候補としての通常教育。
10歳の少女にしては、なかなかの多忙です。ですが、問題ありません。
私は主人公ですから。
主人公には、多少の多忙などつきものです。むしろ問題なのは、多忙そのものではありません。
問題は、カリウスとティタンの好感度が、半年かけて落ち着くどころか、それぞれ別方向に育ってしまったことです。
まず、カリウス。
カリウス・パラジムの風は、見違えるほど安定しました。
花びらを集める。落ち葉を浮かせる。水面を揺らさずに風だけを通す。鳥の羽を傷つけず、空中で受け止める。
10歳の風属性としては、十分すぎる成長です。問題は、その風が安定すればするほど、なぜか私の周囲に集まってくることでした。
「フライト様、本日の風はいかがですか」
「よく制御できていますわ、カリウス様」
「では、昨日の俺より、今日の俺の方がフライト様のお役に立てますか」
「まずご自分の成長として喜んでくださいませ」
「はい。フライト様のお役に立てる俺に成長できて嬉しいです」
違います。そうではありません。この半年、私は何度もカリウスに言いました。
あなたの風はあなたのものです。あなた自身のために鍛えてください。辺境伯家の令息として、いずれ国防の要となる力です。
けれど、カリウスはそのたびに真剣な顔でうなずきました。
「はい。フライト様のために、自分の風を自分のものとして鍛えます」
戻ってきます。それはもう、必ず私へ戻ってきます。
風属性とは、そういうものなのでしょうか。流したはずのものが、勢いを増して吹き返してきます。
次に、ティタン。
ティタン・ブラックは、この半年でずいぶんブラック家に馴染みました。
朝の食卓では、お父様と短い会話を交わします。家庭教師の授業では、課題をきちんとこなします。使用人たちの名前も覚え、屋敷の動きも把握しました。
分家から迎えられた跡取り候補としては、たいへん優秀です。問題は、その優秀さの使い道です。
「ティタン。昨日、わたくしの予定表を見直しました?」
「はい」
「なぜ?」
「フライトが無理をしすぎないように」
「それは家庭教師や侍女の仕事ですわ」
「家庭教師や侍女はフライトの表情までは読みません」
「あなたは読むのですか」
「少しだけ」
「少し?」
「……できる限り」
控えめに言い直したつもりなのでしょう。全然控えめではありません。
ティタンは相変わらず静かです。穏やかで、礼儀正しく、感情を荒らげません。
ただし、私に関することになると、とても深く沈みます。
カリウスは熱い風のように私へ向かってくる。
ティタンは深い水底のように私の足元へ沈んでくる。
どちらも、私の言葉をとても大切にしてくれます。大切にしすぎています。
これは、『ときめきブック』本編開始時点で好感度が高い理由なのだと理解はしています。けれど、実際に目の前で向けられると、なかなか圧があります。
攻略は順調。順調すぎるだけ。そう考えることにしました。
そんなある日、私はお父様に呼ばれました。
ブラック公爵家別邸の書斎。重厚な扉。壁一面の書棚。王家から贈られた古い掛け時計。ブラック公爵家の歴史が詰まった部屋。
私は静かに礼を取りました。
「お呼びでしょうか、お父様」
「ああ。フライト、体調は安定しているな」
「はい。闇属性の魔力も、以前よりずっと落ち着いております」
お父様はうなずきました。
ブラック公爵家当主としての威厳。王家と近い名門の主としての慎重さ。そして、娘を次期王妃候補として扱う冷静さ。そのすべてをまとった声で、お父様は言いました。
「そろそろ、王都へ戻る」
私は背筋を伸ばしました。
「王都へ、ですか」
「おまえは長らく療養のため、こちらの別邸で過ごしてきた。だが、いつまでも正式な挨拶を先延ばしにするわけにはいかない」
正式な挨拶。その言葉で、すぐにわかりました。
ニケル・アクチイド王太子殿下。私の婚約者です。
生まれた時から、家同士に認められていた婚約者。けれど、私は幼い頃から身体が弱く、王都での社交や王宮行事を控えていました。
そのため、ニケル殿下とはまだ正式にお会いしたことがありません。ですが、いつまでも会わないわけにはいかない。私は、王妃候補なのですから。
「ニケル殿下へご挨拶に伺うのですね」
「そうだ」
お父様は静かに答えました。
「王宮からも、そろそろ顔合わせを、との意向が届いている」
「承知いたしました」
ニケル・アクチイド。
土属性。アクチイド王国の王太子殿下。私の婚約者。『ときめきブック』攻略対象者の一人。そして、断罪劇担当。
たいへん重要な人物です。
何しろ、ゲーム終盤の共通イベントでは、ニケル殿下がフライトを断罪します。
アイリス・ホワイスをいじめた罪。光属性保持者を害した罪。次期王妃候補にふさわしくないという疑惑。
その断罪劇の場で、最も好感度の高い人物がフライトをかばい、ルートが確定する。そういう構造です。
ただし、ニケル殿下のルートだけは少々特殊でした。
断罪劇は、実はニケル殿下の自作自演。フライト・ブラックが本当に王妃となる器を持つのか。誤解と悪意の中で、誰を信じ、どう振る舞うのか。それを測るための試験です。控えめに言って、試し方が最悪です。
ですから、ニケル殿下は危険です。王太子殿下だから。婚約者だから。攻略対象者だから。腹黒だから。確実に危険要素が多すぎます。
できるだけ穏便に。婚約者として失礼なく。しかし、ニケル殿下ルートには入らない程度に距離を保つ。難易度が高いです。
けれど、やるしかありません。
私は主人公ですから。
「王都へは、いつ出発いたしますの?」
「3日後だ」
「承知いたしました」
「ティタンも同行させる」
私は少し瞬きしました。
「ティタンも、ですか」
「ああ。あの子も、いずれは王都の本邸で過ごす時間が増える。ブラック家の者として、王都に慣れさせておく必要がある」
なるほど。ティタンはブラック家の跡取り候補。いつまでも公爵領の別邸だけで育てるわけにはいきません。
王都の本邸。社交界。王宮との距離感。ブラック家の立場。
それらを少しずつ覚える必要があります。理屈はわかります。ただし、ニケル殿下との顔合わせにティタンが近くにいることが、少し気がかりでした。ティタンは静かです。礼儀もあります。けれど、私に関することになると、時々とても深く沈みます。その深さが、王都で波立たないことを願うばかりです。
「承知いたしました」
「それと、フライト」
「はい」
「ニケル殿下は聡明な方だ」
お父様の声が、少しだけ低くなりました。
「婚約者として礼を尽くしなさい。ただし、相手がニケル王太子殿下であることを忘れてはならない」
「はい」
「そして、自分がブラック公爵家の令嬢であることもだ」
つまり。甘えすぎるな。怯えすぎるな。軽んじるな。軽んじられるな。そういうことですね。
私は静かに礼を取りました。
「心得ております」
お父様は、少しだけ目を細めました。
「おまえは、昔から物分かりがよすぎるところがある」
「そうでしょうか」
「10歳の子どもなら、もう少し緊張してもよい」
「緊張はしておりますわ」
「顔に出ていない」
「王妃候補として、顔に出さないよう教育されましたので」
お父様は、小さく息を吐きました。
叱責ではありません。けれど、少しだけ父親らしいため息でした。
「……無理はするな」
「はい」
私は微笑みました。
無理。その言葉は、少しだけ胸の奥に残りました。
10歳までのフライト・ブラックは、完璧であることを求められてきました。すみれの記憶を思い出した私は、そこに攻略情報まで得ました。
だから、大丈夫。私は知っている。
ニケル殿下がどういう方か。どの言葉を選べばよいか。どの程度距離を保てばよいか。
私は主人公ですから。
そう思って、書斎を出ました。
そして、その日の夕方。
カリウスに王都行きを伝えたところ、たいへん予想通りの反応が返ってきました。
「俺も行きます」
「行きません」
「なぜですか」
「カリウス様はパラジム辺境伯家のご子息でしょう。今回はブラック家として王都へ向かうのです」
「俺はフライト様の幼馴染です」
「王宮への顔合わせに幼馴染は同行しません」
「では、護衛として」
「正式な護衛はおります」
「では、風だけでも連れて行ってください」
「風だけとは?」
カリウスは真剣な顔でした。
俺の風を、フライト様の周囲に置いておきます。殿下が近づきすぎたら、少しだけ知らせます」
「いけません」
「少しだけです」
「王太子殿下に対して不敬です」
「殿下であっても、フライト様に近づきすぎるなら警戒対象です」
「不敬です」
「婚約者だからといって、何をしても許されるわけではありません」
「それはそうですが、言い方があります」
危ないので却下しました。かなり強めに却下しました。
あの子は、将来本当に大丈夫でしょうか。
一方、ティタンはというと。
「僕も、王都へ?」
「ええ。お父様がそうお決めになりました」
「フライトと一緒に?」
「ええ」
ティタンは静かに瞬きをしました。喜ぶでもなく、驚くでもなく、ただ水面に小さな波紋が広がるような顔でした。
「ニケル殿下に、会うんですね」
「わたくしはそうですわ。あなたは顔合わせの場に同席するわけではありません」
「それでも、フライトはニケル殿下に会う」
「婚約者ですもの」
「はい。存じています」
ティタンは目を伏せました。その声は静かでした。けれど、水底に落ちる石のような重さがありました。
私は少し考えます。
ここで妙に慰めるのは違う。ティタンは私の婚約者ではありません。その座を期待させてはいけません。けれど、突き放しすぎれば、また彼は自分の役目だけに沈むでしょう。
言葉を選ぶ必要があります。
「ティタン。わたくしがニケル殿下の婚約者であることと、あなたがブラック家にとって大切な人であることは、別の話ですわ」
ティタンは顔を上げました。
「別の話」
「ええ。わたくしの婚約は王家とのもの。あなたの居場所はブラック家のもの。どちらか一つが、もう一つを消すわけではありません」
「フライトが王家へ行っても?」
「その時は、あなたがブラック家を支えるのでしょう」
ティタンの瞳が揺れました。
「僕が、フライトの戻る場所を守る」
「戻るとは限りませんわよ」
「それでも、場所は必要です」
静かな声でした。
「フライトが戻らなくても、フライトの場所は必要です。僕は、それを守ります」
重い。けれど、少しだけ頼もしい。
私はため息をのみ込み、微笑みました。
「では、まずは王都で、ご自分の役目を学んでくださいませ」
「はい」
ティタンは、ほんの少しだけ笑いました。
「フライトがそう望むなら」
私は窓の外へ視線を向けました。
王都。アクチイド王国の中心。王家、貴族、魔法学園、社交界。
『ときめきブック』本編の舞台へ続く場所。
そして三日後、私は初めて、ニケル・アクチイド王太子殿下に会うのです。
王太子殿下ルート。現時点では、管理対象。
絶対に管理対象です。




