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第5話 10歳の私(わたくし)には居場所が少々重すぎます

カリウス・パラジムの風が、たいへん順調に安定し始めてから、さらに1週間が経ちました。


わたくし、フライト・ブラックは、その1週間もたいへん有意義に使いました。


まず、カリウスの風魔法について。


彼は、毎日のように公爵家の庭園で風を操る練習をしています。最初のように薔薇の枝を折ったり、噴水の水を散らしたりすることは、もうほとんどありません。


花びらを集める。落ち葉を浮かせる。水面を揺らさずに風だけを通す。鳥の羽を傷つけず、空中で受け止める。10歳にしては、十分すぎるほどの成長です。ただし、問題もあります。


「フライト様、今日の風はいかがですか」


「昨日より安定していますわ」


「では、昨日の俺より、今日の俺の方がフライト様のお役に立てますか」


「まずご自分の成長として喜んでくださいませ」


「はい。フライト様のお役に立てる俺に成長できて嬉しいです」


違います。そうではありません。


方向修正をしようとすると、必ず私へ戻ってくる。


カリウスの風は安定しました。けれど、カリウス本人は私へ向けて吹き続けています。

これは好感度が順調に上がっている証左。たぶん、きっと、そういうことでしょう。


次に、ティタンについて。


3週間前、ブラック公爵家に迎えられた遠縁の少年。


水属性。跡取り候補。義理の兄弟枠。攻略対象者。


初日は、どこに立ってよいのかわからないような顔をしていました。けれど最近は、少しだけ屋敷に馴染んできたように見えます。


朝の食卓では、お父様の質問に短く答えるようになりました。家庭教師の授業では、必要なことをきちんと覚えます。使用人に対しても、無礼ではありません。


あくまで静かに。あくまで控えめに。けれど、少しずつブラック家の一員としての振る舞いを学んでいる。


たいへん良い傾向です。良い傾向のはずです。

……ただし、ティタンにも問題があります。


「フライト」


静かな声がしました。


私は別邸の廊下を歩いておりました。振り向くと、廊下の端にティタンが立っています。


3週間前より、少しだけ表情が落ち着いて見えました。水のような目は相変わらず静かですが、初日のような張りつめた警戒は薄れています。


それ自体は、とてもよいことです。ただし。


「ティタン。何かご用ですか?」


「用はありません」


「では、どうしましたの?」


「フライトが、こちらを通ると聞いたので」


はい、待ち伏せ確定ですね。


この3週間で、ティタンは屋敷の廊下の流れをかなり正確に把握しました。


私が午前の授業後に庭園へ出る時間。午後のお茶の前に書庫へ寄る時間。夕方、お父様の書斎へ向かう時間。


それらを正確に覚えているようです。優秀です。優秀なのですが、用途に少々問題があります。


「わたくしが通るのを待っていたのですか?」


「はい」


「なぜ?」


「フライトのところへ行ってもいいと、言ってくれたので」


ティタンは、真顔でした。


ああ。それは、初日に私が言った言葉です。同じ家で暮らすのだから、困ったことがあれば一人で抱え込まず、私のところへ来てよい。


確かにそう伝えました。


ただし、それは「わたくしの通り道で待っていてよい」という意味ではありません。違うのですが。完全に違うと言い切るのも、少し難しい。私は、言葉を選びました。


「ティタン。わたくしのところへ来てよい、とは言いましたわ」


「はい」


「ですが、それは何か困ったことがあった時のお話です」


「困ってはいません」


「では、なぜいらっしゃいましたの?」


「困っていない時に行ったら追い返されるのかどうかを確かめようと思いました」


なるほど。これは確認ですね。ティタンは、自分がどこまで近づいてよいのかを測っている。


用がなければ駄目なのか。困っていなければ駄目なのか。役に立たなければ駄目なのか。理由がなければ、そこにいてはいけないのか。その境界を、彼は確かめているのでしょう。


ここで突き放せば、ティタンはきっと「用のない自分には価値がない」と覚える。けれど、無条件に受け入れすぎれば、今度は「フライトのそばだけが居場所だ」と覚える。


どちらも危険ですね。必要なのは、過不足のない肯定。この3週間、何度も考えたことです。


私は小さく息を吐きました。


「用がないなら来てはいけない、ということはありませんわ」


ティタンの瞳が、わずかに揺れました。


「本当ですか」


「ええ」


「役に立たなくても?」


「役に立つかどうかだけで、あなたがここにいてよいかが決まるわけではありません」


「跡取り候補でも?」


「跡取り候補である前に、あなたはティタン・ブラックです」


ティタンは黙りました。水面に小石を落としたように、その瞳が静かに揺れます。


「では、僕は」


「はい」


「用がなくても、フライトの近くに行ってもいい」


「……近く、の程度によりますわね」


「程度」


「ええ。たとえば、授業中にじっと見つめられると困ります」


「授業中は見ないようにします」


「食事中も、あまり見つめられると困ります」


「食事中も控えます」


「夜中に部屋の前に立つのも駄目です」


「それはしていません」


「今後もしないでくださいませ」


「わかりました」


素直です。素直なのですが、確認する項目が少し……。


私は笑顔を保ちました。


「つまり、節度を守れば、同じ家の者として話しかけても構いません」


「節度」


「ええ。節度です」


「では、覚えておきます」


「何をですの?」


「フライトは、節度を守れば、用のない僕を追い返さない」


少し違います。けれど、初日よりはましです。ましな気がします……。


「……まあ、おおむねその理解でよろしいですわ」


ティタンは静かに微笑みました。その微笑みは、とても小さいものでしたが、まるで暗い水底に一筋の光が差したような深い変化がありました。


「では、今日は節度を守っていますか」


「今のところは」


「なら、少しだけ隣を歩いても?」


「本当に少しだけですわよ」


「はい」


ティタンは、私の隣に並びました。近すぎはしません。けれど遠くもありません。10歳の子どもが、ようやく自分の立つ位置を見つけようとしているように見えました。


廊下を歩きながら、ティタンは壁に並ぶブラック公爵家の肖像画を見上げました。


「ここには、王家に嫁いだブラック家の女性が多いんですね」


「ええ。ブラック公爵家は、たびたび王妃を輩出してきましたから」


「フライトも、そうなるんですか」


「可能性は高いでしょうね」


「ニケル殿下の婚約者だから」


「ええ」


ティタンは、少しだけ黙りました。歩く速度は変わりません。けれど、水属性の魔力が、ほんのわずかに揺れました。


「ティタン」


「はい」


「わたくしがいずれ王家へ嫁ぐかもしれないことは、あなたも知っていたでしょう?」


「知っています」


「そのためにあなたはブラック家に迎えられたのですから」


「はい」


ティタンは素直に認めました。その表情は静かです。けれど、私にはわかりました。彼は、自分が役目のためにここへ来たことを、最初から理解している。だからこそ、役目の外側にあるものを、ひどく慎重に確かめているのです。


「フライト」


「何ですの?」


「僕は、フライトが王家へ行ったら、ブラック家に残ります」


「そうでしょうね」


「フライトが戻る場所を、僕が守ります」


立ち止まりました。私ではありません。


廊下の先から歩いてきたお父様が、ぴたりと足を止めたのです。


「ティタン」


お父様の声は低く、静かでした。叱責というほど強くはありません。けれど、廊下の空気を一瞬で整える声です。


「その言葉は、10歳の子どもが軽々しく口にするものではない」


ティタンは、私の隣でお父様を見上げました。


「軽くはありません」


「だからこそだ」


お父様は静かに言いました。


「ブラック家を守るとは、個人の感情だけで背負える言葉ではない。おまえはこの家に来て、まだ3週間だ。まずはこの家を知り、自分の足で立つことを覚えなさい」


正しい。たいへん正しいですわ、お父様。私が言うより、ずっと説得力があります。


ティタンは黙っていました。


反発しているわけではありません。ただ、自分の中に生まれた感情を、どう扱えばいいのかわからないように見えました。


私は、少しだけティタンの方へ向き直ります。


「ティタン」


「はい」


「お父様のおっしゃる通りですわ。戻る場所を守るというのは、とても重い言葉です」


「……はい」


「ですから、今すぐそうならなくてよいのです」


ティタンの指が、わずかに動きました。今日は手を握っていません。けれど、何かを掴もうとして思いとどまったように見えました。


「今はまず、あなた自身がこの家にいてよいのだと覚えてくださいませ」


「僕が」


「ええ。あなたが、です」


 ティタンはゆっくりと瞬きをしました。


「では、覚えておきます」


「何をですの?」


「フライトは、僕に先にフライトが戻るための居場所を持てと言ってくれた」


「……少し違いますわ」


私は思わずそう言いました。


お父様が、重いため息をつきます。


「かなり違う」


たいへん正しいご指摘です。


お父様は、私とティタンを見比べます。


「フライト」


「はい、お父様」


「おまえも、言葉の影響を少し考えなさい」


「……はい」


たいへん正しいご指摘でした。



その日の夜。私は『ときめきブック攻略計画』のノートを開きました。そして、カリウスとティタンの項目に目を通します。


カリウス・パラジム。


風属性。魔力暴走回避済み。魔力共鳴あり。好感度、想定より高い。やや陶酔傾向。今後、自立を促す必要あり。


ティタン・ブラック。


水属性。ブラック家への定着開始。魔力共鳴あり。名前呼びに変更。好感度、想定より深い。静かな依存傾向。今後、自分の意思を育てる必要あり。


この二人は、『ときめきブック』本編開始時点でフライトを強く慕っている。それは知っていました。しかし、実際に目の前で向けられる感情は、思っていたよりずっと重い。


ゲーム画面の向こうでは、「好感度が高い」の一言で済みました。でも現実では、好意には温度があります。重さがあります。湿度があります。


カリウスの風は熱を帯びて、私へ吹いてくる。

ティタンの水は深く沈んで、私の闇を求める。


これは攻略が順調ということです……かね。

そういうことにしておきましょう。


私は鏡の中の自分に向かって、静かに微笑みました。


「問題ありませんわ」


声に出すと、少し安心しました。


「これは好感度です。重いだけです」


もう一度、確認します。


わたくしは主人公ですから。


主人公が攻略対象者たちに慕われるのは、当然のこと。それを疑う必要はありません。


そう思い、私はノートを閉じました。

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