第4話 10歳の私(わたくし)には好感度が少々重すぎます
すみれとしての記憶を思い出してから、2週間が経ちました。
私、フライト・ブラックは、その2週間をたいへん有意義に使いました。
まず、『ときめきブック攻略計画』のノートを本格的に整えることにしました。記憶している限りのイベント、攻略対象者、分岐条件、断罪劇の流れを書き出し。
最後に、十七歳のアクチイド王立魔法学園入学までに済ませておくべき準備を整理しました。
ついでに、記憶の中の【ときめきブック】についても、できる限り書き残しました。
ゲーム内の【ときめきブック】は、単なるメニュー画面ではありません。
学園で出会った相手との記録を自動で綴る魔導書。魔力共鳴、交流、選択肢、イベントの結果。それらが人物ごとのページとして蓄積されていく本。ゲームでは、そのページが攻略情報そのものでした。
誰のページがどこまで進んでいるか。どの挿絵が開いたか。どの章が未読か。
すみれは、それを何度も確認していました。
ならば現実でも、同じように整理すればよいのです。
カリウスのページ。ティタンのページ。ニケル殿下のページ。スイのページ。フッケルのページ。アイリスのページ。
今はまだ本物の魔導書はありませんが、ノートで代用すれば十分です。我ながら、たいへん手際がよい。
もっとも、これは鈴木すみれの記憶だけのおかげではありません。10歳までのフライトも、決してぼんやりした子どもではありませんでした。ブラック公爵家の令嬢として、ニケル殿下の婚約者として、幼い頃から貴族令嬢さらには王妃候補の教育を受けています。
誰が何を望んでいるのか。誰の一言が場を動かすのか。どの発言が後々まで尾を引くのか。そういうものを読む訓練は、すでに叩き込まれていました。
すみれの記憶が戻ったことで、ゲーム知識が加わった。フライトとしての教育に、すみれの攻略情報が重なった。つまり、今の私はかなり有能です。
カリウス・パラジムの魔力暴走イベントは攻略済み。
ティタン・ブラックの孤立イベントも、初手は悪くありません。
ゲーム開始まで、あと7年。今のところ順調です。
そう。とても順調。……少なくとも、私はそう思っておりました。
「フライト様!」
庭園に出た瞬間、風が吹きました。
比喩ではありません。本当に風が吹いたのです。春のやわらかな風ではなく、明確な意思を持ってこちらに駆け寄ってくるような風。花びらが舞い、木の葉が揺れ、わたくしの金髪をふわりと持ち上げます。
その風の向こうから、カリウス・パラジムが走ってきました。
カリウスは10歳の少年らしい速さで駆けてきて、私の数歩手前でぴたりと止まりました。
えらい。ぶつからないだけの理性はあります。
「おはようございます、フライト様!」
「おはようございます、カリウス様」
「今日もお会いできました!」
「ええ。昨日も一昨日も3日前にも……毎日お会いしておりますわね」
「はい。昨日も一昨日も3日前も2週間連続で毎日お会いできました!」
カリウスはにこにこと笑っています。2週間前の魔力暴走で真っ青になっていた少年とは別人のようです。
表情は明るい。目も輝いている。風魔法も安定している。たいへん良い傾向です。良い傾向のはずです。
「フライト様、見てください」
カリウスが右手を上げると、小さな風の輪が生まれました。風は庭園に落ちていた花びらを集め、くるくると回し、やがて一輪の花の形を作ります。
10歳にしては見事な魔力制御です。
私は素直に感心しました。ただし、ここで褒めすぎるのは危険です。
カリウスは2週間前、わたくしの「綺麗」という一言を、ほとんど救済の言葉として受け取ってしまいました。この少年は、肯定に飢えています。飢えている子に甘い言葉だけを与えれば、感謝ではなく依存になります。
褒める。けれど、私だけに結びつけない。彼自身の努力に返す。それが必要です。
「まあ。2週間前より、ずっと制御が安定していますわ」
私は微笑みました。
「カリウス様が練習なさった成果ですわね」
カリウスの顔が、ぱっと明るくなりました。それはもう、花が咲くように。いえ、花というより、主を見つけた猟犬のように。
「フライト様が褒めてくださると思ったので」
「練習の成果は、あなた自身のものですわ」
「では、俺自身をフライト様に褒めていただけたということですね」
え、そちらへ行きますか。わたくしは努めて笑顔を保ちました。
この解釈力。風属性らしく、都合の良い方向へよく流れます。
私のノートの中で、カリウスのページに文字が増えていくような気がしました。
風は安定。好感度は上昇。ただし、依存傾向あり。
……ゲーム画面なら、きっと小さな注意書きが出ていたことでしょう。
「カリウス様」
「はい!」
「風はあなたのものですわ。わたくしのためだけに使うものではありません」
これは大事なことです。最終目標はアイリスとの友情エンド。カリウスルートに入るつもりはありません。ここは、少し距離を取るべきです。
しかしカリウスは、私の言葉を聞いて、なぜか感動したように息をのみました。
「……フライト様は、俺の風を俺のものだと言ってくださるんですね」
「え、ええ」
「皆は、危ないから抑えろと言いました。父も、母も、教師も、使用人も。けれどフライト様だけが、俺の風を俺のものだと言ってくださる」
「それは、そうですわね」
「なら、俺はこの風を、俺の意思でフライト様のために使います」
あらら?なんだか戻ってきてしまいましたね……
私が少し離そうとした風が、より強くこちらへ吹き返してきました。さすが風属性、と感心している場合ではありません。
カリウスは晴れやかな顔で言いました。
「命じてください、フライト様」
「命じません」
「守れと言ってください」
「言いません」
「では、俺が勝手に守ります」
「なぜそうなりますの?」
「俺の意思です」
言い方は正しい。正しいのですが、内容がよろしくありません。
けれど、カリウス本人はまっすぐでした。まっすぐすぎるほど、まっすぐに私を見ています。
カリウスの風が、私の闇に触れて安定しているのがわかります。
魔力共鳴。好意や信頼によって、魔法が影響し合う現象。
「カリウス様。では、わたくしから一つだけお願いしてもよろしい?」
「何なりと!」
「わたくしのために、まずはご自分を大切になさって」
カリウスは固まりました。
「……俺を?」
「ええ。ご自分の風を嫌わず、鍛え、学び、誰かを傷つけない強さを身につけること。それが、今のカリウス様に必要なことですわ」
「それが、フライト様の望みですか」
「ええ」
カリウスは一瞬だけ目を伏せました。そして、胸に手を当てて、まるで騎士の誓いのように頭を下げました。
「わかりました。俺は、フライト様の望む俺になります」
違います。そうではありません。
私は「自分を大切にして」と言ったのであって、「わたくしの望むあなたになって」とは言っていません。人の話を聞いて。
「カリウス様」
「はい」
「ご自分のために、です」
「はい。フライト様のために、自分を大切にします」
駄目です。これは駄目です。
けれど、10歳のカリウスにこれ以上言っても、今は届かない気がしました。
フライト・ブラック、攻略開始2週間目。
カリウスのページ、順調に進行中。ただし、熱量が想定より高い。
ノートに追記が必要です。




