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第3話 10歳の私(わたくし)、攻略対象のトラウマイベントをクリアします(ティタン編)

わたくしにすみれとしての記憶もよみがえったその数日後。


私は父に呼ばれ、ブラック公爵家別邸の書斎へ向かいました。

重厚な扉。壁一面の書棚。王家から贈られた古い掛け時計。ブラック公爵家の歴史が詰まった部屋。


そこで父は、一人の少年を紹介しました。


「フライト。今日からこの家で暮らすことになる。ティタン・ブラックだ」


静かな少年でした。


整った顔立ち。水を思わせる瞳。淡い亜麻色の髪。年齢のわりに大人びた表情。


ティタン・ブラック。


水属性。

ブラック公爵家に跡取り候補として迎えられたブラック家分家の息子。

フライトと同じ10歳。

義理の兄弟枠。

攻略対象者。

難易度は低め。


一人娘の私がニケル殿下の婚約者である以上、将来、王家へ嫁ぐ可能性は限りなく高い。そうなれば、公爵家には跡取り候補が必要になる。


ティタンが迎えられた理由は、そこにあるのでしょう。つまり彼は、家族としてではなく、まず役目として呼ばれた子です。その事実を頭のいい彼が理解していないはずはありません。

ティタンも幼少期の孤立をフライトが和らげている設定だったはず。


「初めまして、ティタン。わたくしはフライト・ブラックですわ」


私は微笑みました。


ティタンは丁寧に頭を下げます。


「……よろしくお願いいたします、フライト様」


「ティタン」


「はい」


「あなたは今日からブラック家の者です。客人ではありません」


「……はい」


「ですから、その呼び方は少し他人行儀ですわ」


ティタンが、わずかに目を上げました。


「他人行儀、ですか」


「ええ。わたくしたちは、同じ家に暮らすのでしょう?」


「はい」


「ならば、わたくしのことはフライトと」


そこまで言って、私は少しだけ考えました。まだ初対面の子どもに、急に呼び捨てを強要するのも乱暴です。特に分家で育てられた分別のある子どもには。けれど様付けで距離を置かせるのもよくないと思いました。


「……無理にとは言いません。でも、そう呼んでくださると嬉しいですわ」


ティタンはしばらく黙っていましたが、その沈黙は拒絶とは感じませんでした。ただ、差し出されたものをどう受け取ればいいのかわからない子どもの沈黙のようでした。


「フライト、様…………フライト」

小さな声でした。けれど、確かにそう呼びました。ティタン自身が驚いたように、唇を閉じます。


私は微笑みました。


「はい。ティタン」


ティタンの水を思わせる瞳が、ほんのわずかに揺れました。


「……呼んでも、いいんですか」


「ええ」


「僕が?」


「あなたが」


「僕が、フライトと呼んでも」


「もちろんですわ」


ティタンは、私の名前をもう一度、声にするか迷うように唇を動かしました。


「フライト」


先ほどより、少しだけはっきりした声でした。その瞬間、彼の水属性の魔力が、かすかに揺れました。不安定な水面に、小さな光が落ちたような揺れ。


魔力共鳴。


それは、ほんのわずかなものでした。けれどティタンは、まるで自分の居場所を一つ見つけたような顔をしていました。


「では、未来永劫覚えておきます」


「何をですの?」


「フライトが僕に名前を呼んでいいと言ってくれたことを」


その言葉に、私は少しだけ固まりました。

名前を呼んでいい、というだけで、ここまで深く受け取りますか。


でも、『ときめきブック』本編開始時点でティタンの好感度が高い理由としては、たしかに納得できます。


ティタン・ブラックのページは、静かに、けれど深く開き始めたようでした。

彼の声は穏やかでした。けれど、その目はひどく慎重でした。ここにいていいのかわからない子どもの目。


前世のすみれは、その目を知っていました。ただし、同情はしません。同情された側が、どう感じるかを知っているからです。

かわいそう。大変だったね。助けてあげる。そういう言葉は、人を遠ざけます。


だから、私はティタンをかわいそうな子として扱いません。必要なのは同情ではなく、場所です。


「ティタン」


「はい」


「同じ家で暮らすのです。困ったことがあれば、一人で抱え込まず、わたくしのところへ来てくださいませ」


ティタンがわずかに首を傾げました。


「僕が、ですか」


「ええ」


「僕が、フライトのところへ行ってもいいんですか」


「もちろんですわ」


「……なぜ?」


私は少し考えました。


ここで「かわいそうだから」と言ってはいけない。ここで「跡取り候補だから」とも言ってはいけない。

彼はおそらく、自分が役目のためにここへ呼ばれたことを知っています。だからこそ、役目とは別の言葉が必要です。かといって、甘いだけの言葉も危険です。

10歳までのフライトは、すでにそれを理解できる程度には教育されていますし、すみれとしての記憶もあります。


私は、フライトとして答えることにしました。


「あなたがブラックの名を持つからです」


ティタンの表情がかすかに動きました。


「この家に来た以上、あなたは客人ではありません。役目を持つ者である前に、この家に居場所を持つ者です」


「役目の前に?」


「ええ。役目があることと、あなた自身に価値がないことは別ですわ」


ティタンは、黙って私を見ました。水面に小石を落としたように、その瞳がわずかに揺れます。


「ですから、必要なときは、わたくしのところへ来てくださいませ」


「……僕が行っても」


「ええ」


「フライトは、追い返さない?」


「理由も聞かずに追い返すようなことはいたしませんわ」


ティタンは、私の言葉を一つずつ飲み込むように沈黙しました。そして、静かに微笑みました。


「では、覚えておきます」


「何をですの?」


「フライトは、僕が行っても追い返さない」


ティタンは、私の手元を見ました。


「手を取っても?」


「今ですか?」


「はい」


「……少しだけですわよ」


私が手を差し出すと、ティタンは両手で包むように取りました。冷たい手でした。けれど、一度握ると離しませんでした。まるで、離せば沈んでしまうとでも言うように。


水の魔力が揺れます。


不安定な水面。そこに、私の闇が沈む。深く。静かに。水を落ち着かせる。


魔力共鳴。


ティタンの呼吸が、ゆっくりと整っていくのがわかりました。


「フライトのそばは、静かです」


「そうですか」


「僕の中の水が、騒がない」


「それはよかったですわ」


「僕は、フライトがいてもいいと言った場所にいます」


「ティタン」


「はい」


「わたくしには婚約者がいます」


「存じています。ニケル殿下ですね」


ティタンは、少しも動揺せずに答えました。


「わたくしは、いずれ王家へ嫁ぐかもしれません」


「はい」


「それでも?」


「フライトがどこへ行っても、僕はブラック家に残ります」


ティタンの手に、少しだけ力がこもりました。


「あなたが戻る場所を、僕が守ります」


「ティタン」

それまで黙っていたお父様が、低い声で名を呼びました。叱責というほど強くはありません。けれど、書斎の空気を一瞬で整える声でした。


「その言葉は、10歳の子どもが軽々しく口にするものではない」


ティタンは、私の手を握ったまま、お父様を見ました。


「軽くはありません」


「だからこそだ」


お父様は静かに言いました。


「ブラック家を守るとは、個人の感情だけで背負える言葉ではない。おまえは今日、この家に来たばかりだ。まずはこの家を知り、自分の足で立つことを覚えなさい」


正しい。たいへん正しいですわ、お父様。私が言うより、ずっと説得力があります。

ティタンは黙っていました。反発しているわけではありません。ただ、自分の中に生まれた言葉を、どう扱えばいいのかわからないように見えました。

私は、握られた手をそっと見下ろします。


「ティタン」


「はい」


「お父様のおっしゃる通りですわ。戻る場所を守るというのは、とても重い言葉です」


「……はい」


「ですから、今すぐそうならなくてよいのです」


ティタンの指が、わずかに緩みました。


「今はまず、あなた自身がこの家にいてよいのだと覚えてくださいませ」


「僕が」


「ええ。あなたが、です」


ティタンはゆっくりと瞬きをしました。


「では、覚えておきます」


「何をですの?」


「フライトは、僕に先に居場所を持てと言ってくれた」


そこで終わればよかったのです。けれどティタンは、静かな目で私を見つめたまま続けました。


「フライトが戻るための居場所を、僕が先に持てと」


「……少し違いますわ」


私は思わずそう言いました。


お父様が、重いため息をつきます。


「かなり違う」


たいへん正しいご指摘でした。


『ときめきブック』主人公フライト・ブラック、幼馴染と義兄弟の初期好感度が、すでに想定より重い疑惑。


夜、侍女を下がらせてから、ブラック公爵家の令嬢にふさわしい広く整った自室で一人、机に向かいました。私は新しいノートを開きます。表紙には、こう書きました。


『ときめきブック攻略計画』我ながら、たいへん実用的な題名です。


まずは確認。

ゲーム本編開始は、17歳。

アクチイド王立魔法学園への入学。


攻略対象者は5人。


カリウス・パラジム。風属性。幼馴染。

ティタン・ブラック。水属性。義理の兄弟。

ニケル・アクチイド。土属性。王太子殿下で婚約者。

スイ・コペル。火属性。遊び人の侯爵令息。

フッケル・ダンクステン。闇属性。主席。庶子。魔法式設計の天才。


そして、アイリス・ホワイス。平民出身。光属性。銀髪に水色の目。赤いリボン。一人称は、たしか「あたし」。


この世界において、光属性は希少だから守られるわけではありません。発現割合は他属性と大差ない。けれど光属性は、精神干渉や呪い、闇属性の歪みに対抗できる。だから平民貴族を問わず、発現した者は必ずアクチイド王立魔法学園に入学しなければなりません。アイリスが学園に来るのは、制度上当然のこと。


ただし、学園を去るということは、単純に学校を辞めるという意味ではありません。魔法保持者としての信用を失う。国の保護と未来を失う。貴族なら社交界で生きていけず、平民でも魔法を活かす道を閉ざされる。


つまり、学園を去ればアイリスは詰む。ゆえに退学させるわけにはいかない。


すみれは、アイリスが学園を去る結末に少しだけ救われていました。でも、それはすみれの世界の話で画面の向こうの話です。


今、ここにいるはずのアイリスはまだ会ったこともない現実の人間です。だから目指すのは、ざまあなしの友情エンド一択。アイリスが断罪劇でフライトをかばい、誤解が解け、二人が友人になる結末。

そして、できたらフッケルも救う。


フッケル・ダンクステン。


ダンクステン侯爵家の庶子。

宰相家の闇。

母親はメイドで、平民街へ追いやられた。

幼い頃は母親とふたり暮らし、その頃アイリスと出会いふたりは幼馴染だったはず。

後に魔法式設計の才能を見出されダンクステン家へ引き取られる。

タンタル・ダンクステンの異母弟。

15歳ほど年の離れた義兄タンタルに、道具のように扱われる少年。

フッケルルートでは、最後にフッケルがフライトをかばい、タンタルから逃げ出した後、ブラック公爵家へ婿に入る。


すみれはフッケルルートが好きだったみたい。

家に居場所がなかった子が、自分で居場所を選ぶ話だったから。


ならば、こうです。


目標、アイリスとの友情エンド、フッケルも救済する。

出来れば『ときめきブック』には公式には存在しないアイリスとフッケルの幼馴染ルートも開拓出来たら……


つまり。全員救います。


……少し欲張りでしょうか。でも、私には準備期間が7年もあります。私は、この本のページの埋め方を知っています。カリウスのページも。ティタンのページも。ニケル殿下のページも。フッケルのページも。

アイリスとの友情ページも。


カリウスとティタンの初期イベントは、すでに順調。

今後はニケル殿下との婚約関係をほどよく維持し、遊び人スイとは適切な距離を取り、フッケルの情報を集める。アイリスとは学園入学後、速やかに友好的な関係を築く。


完璧ではないでしょうか。私はペンを置き、窓の外を見ました。


10歳までのフライト・ブラックは、完璧であることを求められる子どもでした。

そこに、鈴木すみれのゲーム知識が加わった。


居場所がなかった前世。バッドエンドのないゲーム。救われる悪役令嬢。退場するアイリス。

私は迷いません。迷う必要などないと思っていました。


だって、私はこのゲームを知っている。バッドエンドはありません。最後には必ず、誰かが私をかばってくれる。


私は主人公ですから。


17歳まで、あと7年。勝ち確な気がします。

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