第10話 17歳の私(わたくし)、ヒロインのページを開きます
アクチイド王立魔法学園。王国中の魔法保持者が集まる場所です。
貴族の子弟が多いものの、平民もいます。魔法は貴族に発現しやすいだけで、平民にも発現することがあるからです。そして、光属性の者は平民貴族を問わず、必ずこの学園へ入学します。
光属性は、希少だから守られるわけではありません。発現割合だけで言えば、他属性と大きく変わらない。けれど光属性は、精神干渉や呪い、闇属性の歪みに対抗する性質を持つ。だから国が管理し、教育し、守るべき属性とされているのです。
つまり、彼女も今日、この学園に来るはず。
アイリス・ホワイス。
平民出身。光属性。銀髪に水色の目。赤いリボン。
『ときめきブック』における、いわゆるヒロイン枠の少女。
そして、私が友情エンドへ進めるべき相手です。
アイリス友情エンド。
それは、ゲームにおいて唯一、アイリスが学園を去らずに済む結末でした。
友情エンド以外では、アイリスは結果的にフライトを陥れた者として学園を去ります。
アクチイド王立魔法学園を去るということは、ただ学校を辞めるという意味ではありません。魔法保持者としての信用を失い、国の保護と未来を失うこと。
だから、私は彼女を退学させるわけにはいきません。
すみれは、アイリスが学園を去る結末に少しだけ救われていました。
アイリス。すみれの世界では、あやめの花。鈴木あやめと同じような名前を持つ子。
かわいそうな子を見る側にいた少女が、最後には見られる側になる。その展開を、すみれは少しだけ気持ちよいと思っていました。認めたくはありません。けれど、すみれは、そんなに完璧な子ではなかったのでしょう。
ですが、今は違います。
ここに来るアイリス・ホワイスは、画面の向こうのキャラクターではありません。現実に、この学園へ入学する一人の少女です。
だから、友情エンド。彼女を学園から去らせない。
フッケルも救う。恋愛エンドは避ける。
可能なら、アイリスとフッケルの幼馴染関係も良い形に整える。
我ながら、完璧です。我ながら、たいへん美しい攻略計画です。
そう思っていた、その時でした。
学園の門の外で、少しだけ人の流れが乱れました。
馬車ではありません。貴族の従者に囲まれているわけでもありません。
門番に何かを尋ねている少女が、一人。
声が大きいのでしょうか。近くにいた新入生たちが、ちらちらとそちらを見ています。
「えっと、受付はどこですか? あたし、アイリス・ホワイスです! 光属性です!」
まだ聞かれてもいないことまで、たいへん元気に名乗っています。
銀色の髪。水色の目。赤いリボン。着慣れていない制服。不安と期待の入り混じった表情。そして、周囲の空気を少しだけ明るくするような光属性の魔力。
来ました。
アイリス・ホワイス。友情エンドの相手。私が、絶対に学園から去らせてはいけない少女。胸の奥で、すみれの記憶がかすかにざわめきました。けれど、私は微笑みます。大丈夫。
これはゲームです。いえ、現実です。でも、私は確実にこの物語を知っています。
まずは、彼女に優しく声をかける。高圧的にならず、下手にも出ず。次期王妃候補として、完璧な距離感で。アイリスのページを、正しく開く。友情エンドへの第一歩です。
私はアイリスへ向かって、一歩踏み出しました。
「ごきげんよう」
声をかけると、アイリスはびくりと肩を跳ねさせました。
「は、はい!」
返事が大きい。周囲の生徒が何人かこちらを見ました。アイリスはそれに気づき、慌てて口元を押さえます。
「す、すみません! あたし、声が大きくて……!」
「構いませんわ。緊張なさっているのでしょう?」
「はい! あっ、また大きかった……!」
アイリス・ホワイス。
ゲーム画面で見た彼女は、明るく、素直で、少しおっちょこちょいな少女でした。実物も、かなり近い。近いのですが。画面越しに見るのと、現実に目の前で見るのとでは、少し違います。
「あなたが、アイリス・ホワイスさんですね」
「あ、はい! アイリス・ホワイスです! 光属性です!」
まだ受付前ですのに、すでにまた属性まで名乗っています。
素直。たいへん素直。少々、素直すぎます。
「わたくしはフライト・ブラックです」
名乗った瞬間、アイリスの目がぱっと見開かれました。
「フライト・ブラック様!?」
また声が大きい。
「王太子殿下の婚約者の方ですか!?」
さらに声が大きい。
周囲の視線が、明らかにこちらへ集まりました。
カリウスの風が、背後でほんの少し揺れたのがわかります。
ティタンの水も、静かに沈みました。
少し離れた位置にいたニケル殿下は、たぶん笑っています。見なくてもわかります。楽しんでいらっしゃるのでしょう。面倒です。非常に面倒です。
「ええ。ニケル殿下の婚約者として、家同士に認められております」
「すごい……!」
アイリスは、私を上から下まで見ました。悪意はありません。ですが、たいへん遠慮もありません。
「絵本のお姫様みたいです!」
周囲の空気が、さらに微妙になりました。お姫様。次期王妃候補の公爵令嬢に対して、絵本のお姫様。
悪意はありません。本当に、悪意はないのでしょう。だからこそ、厄介です。
「ありがとうございます」
私は微笑みました。
「ですが、わたくしはお姫様ではありませんわ」
「あ、そうですよね! ごめんなさい! でも、本当に綺麗で……あたし、こんな方、初めて見ました!」
まっすぐです。あまりにも、まっすぐです。まっすぐすぎる言葉は、時々、人を刺します。
「緊張されているなら、まず受付へ向かわれるとよろしいですわ」
「あっ、受付! そうでした!」
アイリスは慌てて周囲を見回しました。
「えっと、受付って、どこですか?」
「あちらです」
私は、学園職員が立っている方を示しました。
「お名前と属性を告げれば大丈夫ですわ。わからないことがあれば、学園の職員にお尋ねなさい」
「ありがとうございます!」
アイリスは頭を下げました。そして、すぐに顔を上げます。
「あの、フライト様」
「何でしょう?」
「フライト様は、怖くないんですね」
私は瞬きしました。
「怖く、ですか?」
「はい。あたし、さっきから失礼なことばっかり言ってる気がするのに、怒らないので」
「怒ってほしいのですか?」
「いえ! そういうわけじゃなくて!」
アイリスは慌てて両手を振りました。
「ただ、貴族の方って、もっと怖いのかなって思ってて。あたし、平民だから、間違えたら怒られるんじゃないかって」
「怖がらせるために礼儀があるわけではありませんわ」
私は微笑みました。
「ただ、知らないままでは困ることもあります。少しずつ覚えればよいのです」
アイリスの表情が、ぱっと明るくなりました。
「フライト様って、優しいんですね!」
優しい。その言葉を聞いた瞬間、少しだけ胸の奥が冷えました。
優しい。かわいそう。大変だったんですね。そういう言葉は、ときどき似ています。言う側は善意で、受け取る側は息苦しい。
「優しいかどうかは、わたくしが決めることではありませんわ」
「え?」
「あなたがそう感じたなら、そのお気持ちはありがたく受け取ります」
アイリスは少しだけ首を傾げました。
おそらく、意味は半分くらいしか伝わっていませんが、初対面で、すべて伝える必要はありません。そう思ったのですが。
アイリスは、じっと私を見ました。
水色の瞳。まっすぐで、遠慮がなくて、眩しい目。
「フライト様って」
嫌な予感がしました。
「一人で立っているみたいに見えます」
周囲の空気が、静かに止まりました。
カリウスの風が鋭くなる。
ティタンの水が、深く沈む。
ニケル殿下の視線が、こちらへ向いたのがわかりました。
私は微笑みを保ちました。
「あたし、うまく言えないんですけど……フライト様って、すごく綺麗で、しっかりしていて、何でもできそうなのに、誰にも頼っていないみたいで」
やめてください。その先を言わないで。そう思ったのは、フライトでしょうか。すみれでしょうか。
けれど、アイリスは止まりませんでした。
「大変だったんですね」
その一言は、とても軽く、けれど鋭く胸の奥に刺さりました。きっとアイリスにとっては、相手を思いやるための言葉だったのでしょう。悪意はありません。悪意はないはずです。だからこそ、胸の奥がざわめきました。
かわいそうな子。口には出さない。でも、そういう目。
あやめではありません。アイリスは、あやめではない。
わかっています。わかっているのに。
「おい」
低い声がしました。カリウスです。
私が返事をするより早く、私の後ろにいたカリウスが一歩前へ出ていました。
「それ以上は、フライト様に失礼だ」
アイリスはびくりと肩を震わせました。
「あ……ご、ごめんなさい!」
カリウスの風が、アイリスとの間に薄く流れます。
目に見えるほどではありません。けれど、確かに距離を作る風です。
「悪意はない」
静かな声が、横から入りました。ティタンです。
「けれど、カリウスの言うことは間違っていない」
ティタンは、アイリスを責めるでもなく、ただ静かに見ていました。
「フライトが大変だったかどうかは、フライトが決めることです」
アイリスは、ぱちぱちと瞬きをしました。そして、顔を赤くしました。
「……勝手に、大変だったんだって思ってしまって」
その声は、先ほどよりは少し小さかった。
「ごめんなさい、フライト様」
私は、彼女を見ました。
銀色の髪。水色の目。赤いリボン。光属性の魔力。アイリス・ホワイス。友情エンドの相手。学園から去らせてはいけない少女。
けれど、胸の奥に別の声がありました。本当に?本当に、この子と友人になる必要があるのでしょうか。
この子は、まだ何もしていません。けれど、私を見て、勝手に大変だったと言いました。一人で立っているみたいだと、言いました。
すみれが嫌っていた視線に、少し似ています。この子がいなくなれば。この子が学園を去れば。私は困らないのではないでしょうか。
そんな考えが浮かんだ瞬間、背筋が冷えました。
アイリスは、まだ何もしていません。
失礼ではありました。踏み込みすぎではありました。善意の使い方を間違えてもいます。けれど、彼女の未来を閉ざしてよい理由にはなりません。
私は扇を開き、口元を隠しました。呼吸を整えます。
私はフライト・ブラック。
ブラック公爵家の令嬢。ニケル殿下の婚約者。王妃候補。そして。
私は主人公ですから。
ここで、感情のままに選択肢を間違えるわけにはいきません。
「アイリスさん」
「はい!」
返事が大きい。
少し安心しました。怯えきっているわけではないようです。
「謝罪は受け取りました」
「あ、ありがとうございます!」
「相手を心配することと、相手を決めつけることは違います」
アイリスは、はっとしたように目を見開きました。
「はい……」
「それから」
「はい!」
「受付は、あちらですわ」
私はもう一度、学園職員のいる方を示しました。
「お名前と属性を告げれば大丈夫です。わからないことがあれば、学園の職員にお尋ねなさい」
「あの、フライト様は……」
「わたくしは、こちらで失礼します」
アイリスの表情が少しだけ揺れました。置いていかれた子どものような顔。
違いますね。そう見ること自体が、すでに彼女を決めつけています。
アイリス・ホワイスは、光属性保持者としてこの学園に入学した生徒です。私が手を引いて受付まで連れていく必要はありません。
それに。今の私は、これ以上彼女のそばにいるべきではありません。
すみれの記憶が、まだざわめいている。
ここで無理に優しくすれば、きっと私はアイリスを「友情エンドの相手」として扱ってしまう。そして、アイリス自身を見なくなる。それは、たぶんよくありません。
「ありがとうございました、フライト様」
ぎこちない礼。けれど、彼女なりに丁寧にしようとしているのはわかりました。
アイリスは、受付の方へ歩き出しました。赤いリボンが、銀色の髪の上で小さく揺れます。足取りは少しだけぎこちない。けれど、立ち止まりはしません。
私は、その背中を見送りました。
光属性の魔力は、やわらかく明るい。けれど、少し眩しい。眩しすぎる光は、ときどき相手の輪郭を消してしまう。アイリスは、それをまだ知らないのでしょう。
そして私は。彼女をヒロインとしてしか見ていないことに、まだ気づかないふりをしている。
アイリスのページ。
友情エンドへ向けて、進行開始。
……のはずです。




