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第11話 17歳の私(わたくし)に、ときめきブックは教えてくれません

アイリス・ホワイスの背中が、人の流れの中へ消えていきました。


赤いリボンが、銀色の髪の上で小さく揺れます。少しだけぎこちない足取り。けれど、立ち止まりはしない。


それを見送りながら、私は扇の陰で小さく息を吐きました。


アイリスのページ。


友情エンドへ向けて、進行開始。……のはずです。


「フライト様」


低い声がしました。カリウスです。


「はい」


「よろしかったのですか」


「何がですの?」


「あの、アイリス・ホワイス嬢ですが」


カリウスは、アイリスが去っていった方へ視線を向けました。


「職員に任せた方がよろしいのではありませんか」


私は扇を閉じました。


「受付の場所は伝えました。名前と属性を告げればよいことも説明しましたわ」


「ですが、フライト様がこれ以上関わる必要はありません」


なるほど。カリウスは、私がこれ以上、彼女に関わらずに済む方法を探しているのです。わかりやすい風ですこと。


「カリウス様」


私は静かに名前を呼びました。


「あの場で職員を呼べば、アイリスさんはどう見られると思います?」


カリウスは、すぐには答えませんでした。


「……何か問題を起こした新入生、と」


「ええ。もしくは、公爵令嬢に迷惑をかけた平民、と」


風が、ほんの少しだけ揺れました。不満。けれど、反論ではありません。


「アイリスさんは、まだ何もしていません」


「でも、フライト様に踏み込みすぎました」


私は扇の骨を、指先でそっと撫でました。


「けれどそれは、罰せられるほどのことではありませんわ」


私は、アイリスが去っていった方を眺めてから、カリウスに向き合いました。


保護。警戒。そして、私の判断を尊重しようとする理性。7年前なら、カリウスの風はもう少し素直に荒れていたかもしれません。今は、揺れてもすぐに収まります。


成長です。たいへん良い傾向です。


「アイリス・ホワイス嬢を、フライト様のお側に近づけるべきではありません」


「初対面ですもの。距離感がわからなかっただけでしょう」


「初対面だからこそです」


カリウスはまっすぐに言いました。


「フライト様のことをよく知らない者が、わかったように言うべきではありません」


正論です。たいへん正論。だからこそ、困ります。その言葉は、私の胸の奥にまだ残っていたざわめきを、少しだけ肯定してしまうからです。


私のことをよく知らないくせに。私を、かわいそうな誰かとして見ようとする、すみれが嫌っていた視線。


アイリスはあやめではありません。それは、わかっています。けれど、少し似ている。だから、余計に苦手だと思ってしまう。そんな自分が、少し嫌でした。


「カリウス様」


「はい」


「アイリスさんに悪意はありませんわ」


「悪意がなければ何を言ってもよい、とは思いません」


「ええ。そこは同意します」


カリウスが少しだけ目を見開きました。


「ですから、先ほどはあなたとティタンが止めた。それで十分です」


「……十分でしょうか」


「十分ですわ」


私は微笑みました。


隣で、ティタンが静かに口を開きました。


「フライトは、あの人を怖がらせたくなかったんですね」


「ええ」


「でも、少し距離は置きたかった」


私は少しだけ瞬きしました。


ティタンは、私を見ています。静かな水のような目。深く、底が見えない目。


「そう見えました」


「……よく見ていますのね」


「フライトのことなので」


私は小さく息を吐きました。


「ええ。少し距離を置きたかったのは事実です」


認めると、カリウスの風がかすかに強くなりました。


「では、やはり」


「カリウス様」


「はい」


「守ることと、閉じ込めることは違います」


カリウスは口を閉じました。


「アイリスさんは友情エンドの相手です。最初から遠ざけてしまえば、目標から外れます」


「友情……エンド?」


 ティタンが、静かにその言葉を繰り返しました。


「フライトは、あの人と友人になりたいのですか」


「なる必要があります」


「必要?」


ティタンの目が少しだけ揺れました。


「なりたい、ではなく?」


鋭い。たいへん鋭い。


私はすぐに微笑みました。正確にはごまかしました。


「今は、必要という言い方が正確ですわ」


「では、いずれ、なりたいに変わるかもしれない」


「そうなるのが理想です」


ティタンは少し黙りました。


「そうですか」


 その声は静かでした。


けれど、水底に沈む石のような響きがありました。

カリウスはまだ納得しきっていない顔をしています。

ニケル殿下は、少し後ろで楽しそうに微笑んでいました。


やめてください。今の会話も、観察対象にしないでください。


「フライト」


「何でしょう、ニケル殿下」


「君は、なかなか忙しいね」


「入学初日ですから」


「そういう意味ではないけれど」


「では、社交として受け取ります」


「本当に便利だね、社交」


「殿下ほどではありませんわ」


ニケル殿下は楽しそうに笑いました。


カリウスがわずかに眉を寄せ、ティタンが静かにこちらを見る。

この3人の前で、アイリスとの友情エンドを進める。難しい。非常に難しいのでは。けれど、やるしかありません。


私は主人公ですから。正しい選択肢を選べば、きっと進めるはずです。……たぶん。



入学式は、想像していたよりも長いものでした。


王立魔法学園の歴史。魔法保持者としての責務。属性ごとの役割。王国における魔法教育の重要性。

学園長のお話は、たいへん立派で、たいへん長い。


周囲の新入生たちは、背筋を伸ばしながらも、途中から少しずつ表情をなくしていました。


アイリスは、少し離れた席に座っていました。

最初こそ目を輝かせて聞いていましたが、半ばを過ぎる頃には、眠気と戦っているのがわかります。

非常にわかりやすいです。


こくり、と頭が揺れる。はっとして背筋を伸ばす。また、こくりと揺れる。


近くの生徒が、ちらちらと彼女を見ています。目立っています。たいへん目立っています。


入学式が終わると、新入生は属性ごとの確認と、魔力共鳴記録書の配布を受けることになりました。

魔力共鳴記録書。通称、ときめきブック。


ついに来ました。


前世のゲーム画面では、学園に入学した直後、この本を受け取る場面がありました。


革張りの表紙。金の文字。開いた時に浮かび上がる、自分と相手の記録。


攻略対象者と出会えば、その人のページが開く。イベントを進めれば、文章が増える。魔力共鳴が深まれば、挿絵が加わる。エンディングを迎えれば、その人物の章が完成する。


それが、ゲーム内アイテムとしてのときめきブックでした。


すみれは、その画面を何度も何度も見ました。


カリウスのページ。ティタンのページ。ニケル殿下のページ。スイのページ。フッケルのページ。そして、アイリスとの友情ページ。


だから、現実でこの本を手にすることは、すみれの記憶もある私にとっては特別な意味があります。


教室に集められた新入生たちは、一人ずつ学園職員から本を受け取っていきました。

名前を呼ばれ、属性を確認し、魔力を少しだけ流す。すると本の表紙に、本人の名前が金文字で浮かび上がる。そんな仕組みです。


「フライト・ブラックさん」


「はい」


私は前へ進みました。職員が差し出した本を受け取ります。


黒に近い深い紫の革張り。金の留め具。表紙にはまだ何も書かれていません。


私は言われた通り、そこへ魔力を流しました。闇属性の魔力が、静かに本へ沈んでいきます。


次の瞬間、表紙に文字が浮かび上がりました。


フライト・ブラック。私の名前。

その下に、小さく文字が続きます。

闇属性。

それだけでした。


私は少しだけ瞬きしました。


それだけ。


今のところ、ページは開いていません。


カリウスのページも。ティタンのページも。ニケル殿下のページも。


ゲームなら、すでに初期好感度の高い相手のページが開いているはずです。少なくとも、カリウスとティタンは開いていてもおかしくありません。


けれど、目の前の本は静かなままです。


なるほど。現実では、学園内での正式な記録から始まるということなのでしょう。


幼少期の関係は、除外される。そういう仕様。いえ。これはゲームではありませんね。

現実の学園用魔導書です。


私は本を閉じました。


問題ありません。

ページが今開いていないだけで、関係が消えたわけではありません。


カリウスも、ティタンも、ニケル殿下も、確かに私の近くにいます。


好感度は高い。とても高い。少々高すぎるほどです。

表示されないからといって、存在しないわけではありません。私はそう判断しました。


席へ戻ると、すぐ後ろでカリウスが呼ばれました。


「カリウス・パラジムさん」


「はい」


カリウスが本を受け取り、風属性の魔力を流します。その時、ほんのわずかに風が揺れます。


私の手元のときめきブックの留め具が、かすかに震えました。

私は目を落とします。開きません。ただ、表紙の金具がほんの少しだけ温かい。

これは、魔力共鳴の予兆でしょうか。


カリウスがこちらを見ました。目が合います。彼は、何かを感じ取ったように微笑みました。その風が、私の闇にそっと触れます。


安定している。7年前よりもずっと。

カリウスの風は、もう簡単には暴走しません。


それは良いことです。良いことなのですが。

彼の風がこちらへ向かう時だけ、少し熱を持つ気がします。気のせいでしょうか。


次に、ティタンが呼ばれました。


「ティタン・ブラックさん」


「はい」


ティタンが前へ進みます。


水属性の魔力が本へ流れ込み、表紙に名前が浮かんだようです。


私の手元のときめきブックが、今度は静かに冷えます。冷たい。けれど、不快ではありません。清らかな小川に指先を浸したような感覚。


ティタンは本を受け取りながら、こちらを見ました。


微笑むでもなく、驚くでもなく。ただ、当然のように。まるで、私の本が反応することを知っていたかのように。


私は本を机の上に置きました。


続いて、ニケル殿下です。


「ニケル・アクチイド殿下」


教室の空気が少し変わりました。


ニケル殿下が前へ進み、本を受け取ります。


土属性の魔力が流れたと思われる瞬間も私のときめきブックは何も動きませんでした。


開かない。震えない。温かくも冷たくもならない。ただ、机の上に静かにあります。


私は少しだけ安心しました。やはり、ニケル殿下ルートは現時点では管理できています。


魔力共鳴も起きていない。本も反応していない。何も問題ありません。


そう思った時。


ニケル殿下がこちらを見ました。

穏やかに笑っています。

その視線が、私の手元の本へ一瞬だけ落ちました。何も反応しないことを、確認したように。そして、ほんの少しだけ楽しそうに目を細めました。

この方は、本が反応しなかったことまで見ています。


つまり、自分と私の間に共鳴が起きていないことを把握した上で、面白がっている。面倒です。非常に面倒です。やはり最重要管理対象。


最後に、アイリスが呼ばれました。


「アイリス・ホワイスさん」


「は、はい!」


アイリスは勢いよく立ち上がり、椅子に少しぶつかりました。小さな音が鳴ります。周囲が振り向きました。


アイリスは真っ赤になりながら、前へ出ます。


私は心の中で応援しました。

落ち着いて。名前を告げて。魔力を流すだけです。


アイリスは本を受け取り、そっと手を置きました。


光属性の魔力が、ふわりと広がります。柔らかく、明るい光。


その瞬間、私のときめきブックが開きました。勝手に。ぱらり、と音を立てて。


教室の中で、その音だけがやけに大きく聞こえました。


開いたページは、白紙ではありません。淡い金色の線が、紙の上に浮かび上がっていきます。そこに記された文字は、たった一行。


光属性保持者、アイリス・ホワイスとの初回共鳴を確認。

初回共鳴。私は、ゆっくりとページを見つめました。


まだ、アイリスとは魔法を交わしていません。共同課題もしていません。実技授業も受けていません。ただ、少し話しただけです。受付の場所を教えただけです。


それなのに。本は開いた。


ゲームでは、アイリスのページは友情ルートを進めれば開きます。


けれど、現実では。

何を基準に、この本はページを開いたのでしょう。


「フライト様?」


前方から、アイリスの声がしました。

彼女は本を抱えたまま、不安そうにこちらを見ています。


私はすぐに微笑みました。


「何でもありませんわ」


何でもない。そう言うしかありませんでした。


けれど、私の手元のときめきブックには、確かに新しいページが開いています。


カリウスでもなく。ティタンでもなく。ニケル殿下でもなく。

最初に開いたのは、アイリス・ホワイスのページ。


予定通りに?いえ。予定より早い。

けれど、悪いことではないはずです。


アイリスとの友情エンドを目指す私にとって、このページが開くことは必要なこと。


そう。必要なことです。


私はそっと本を閉じました。


表紙の金文字が、先ほどより少しだけ明るく見えます。


現実のときめきブックは、好感度を教えてくれません。けれど、関係の痕跡は記録する。

ならば、ここから正しくページを進めればいい。


私は主人公ですから。


この本の読み方を、誰よりも知っているはずです。

……そのはずです。


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