降誕祭
「約束しようよ」
「……約束?」
少女は首を傾げた。
瞳を潤ませた少女の頭を、優しく撫でるのは黒い髪の少年。
彼は大きく頷いた。
肩が触れ合うどころか、密着しないといけないほど狭いそこは、二人だけの秘密の場所だった。
だから少女は、その場所が大好きだった。
体温が、優しさが、ずっと伝わってくるから。
けれどそれでも、流れ落ちそうになる涙。
彼はそれを励ますように笑う。
「待ち合わせしよう。時間と、場所を決めて」
「……でも、その日は」
俯きを必死にこらえる。
涙が零れそうになるから。
「大丈夫。違う場所でも、会う方法はあるよ」
「……どういうこと?」
思いがけないことを言われて、わずかに涙が引っ込む。
「それはね……」
耳に口を寄せてくる彼。
その内容を聞いて、少女は驚く。
「すごい」
「よかった、泣きやんでくれて」
それで、涙で歪んでいた少年の顔が、はっきり見えることに気づいた。
こんなに簡単に涙を引っ込ませてしまうなんて。
思えばそれが、幼馴染が見せてくれた、最初の魔法だったのかもしれない。
――その時の光景が、想いが、遠ざかっていく。
待って。
お願い、もう少しだけ。
そんな思いもむなしく、ブリジッタの意識は急速に――夢の海面へと浮かび上がっていく。
そして見えたのは、白い天井だった。
身体を受け止めているのは、柔らかなベッド。
朝日は眩しく、空気はぬるかった。
そこから逃げ出すようにベッドから身体を起こす。
部屋を見回して――セドリックがいない事実に、息を詰まらせる。
口元に手を当て、なんとか堪えて、落ち着くために意識してゆっくりと呼吸する。
心構えがあったから、我慢できた。
そんな内心を置き去りに、ノックの後に扉が開かれて、メイドたちが入室してくる。
「おはようございます、王女殿下。そして、十五歳のお誕生日、誠におめでとうございます。私たち一同、心よりお祝い申し上げます」
先頭のメイド長が深々と頭を下げると、後ろに居並んだメイドたちもそれに倣う。
そう、今日は自分の誕生日。
なのに――だから――セドリックがいない日、だった。
反応のない王女殿下に、メイド長の顔が曇る。
「……本日のご予定を申し上げます。お着替えの後、朝食を――」
「食べたくない」
硬い声に、メイドたちの動作が縫い留められた。
部下たちの動揺を視線で黙らせたメイド長は、努めて平静に言葉を押し出した。
「……ご伝言を承っております。……ちゃんと食べるように、と。――セドリック様から」
――ちゃんと食べなきゃだめだよ、ジッタ。
いつも言われていることを思い出す。
だからブリジッタは、大きく息を吸い、吐き出し、少し不満そうにすることができた。
「……食べる。それと……」
そうして思い出すのは、いつもの彼の姿勢だった。
「祝ってくれて、ありがとう」
感極まったように、涙ぐむメイドたち。
その光景を置いてベッドから降りると、まだ朝なのに眩しい光が目に差し込んでくる。
ちゃんと食べよう、と思うブリジッタ。
何年も続いてきた待ち合わせに、遅れないように。
儀礼服は、少し息苦しかった。
白地に丈の長いその衣装には、彼女自身の色――青と金が上品に配され、いつも以上にブリジッタを威厳高く見せている。
そして、同時に無機質さも伝えてくる。
彼女はその姿で、大勢の賓客がひしめくパーティ会場に佇む。
「この度は誠におめでとうございます。かの国の麗しき雷姫にお会いすることができて、大変光栄です」
各国大使からの挨拶にも、礼を失することなく、そつなく応じる。
「お言葉、痛み入ります。娘がそのようにお目に留まりましたなら、父として嬉しく思います」
ブリジッタにとって幸いなのは、父オスカーが半ば窓口として立ってくれることだった。
パーティでは酒も供され、年若い王女を値踏みするような気配が混じることもある。
それをさりげなく遮り、測る言葉をやんわりと受け流す。
外交を預かり、この行事を取り仕切る責任者として、父は才ある人物なのだとブリジッタの目に映った。
それがどこか、この場にはいない幼馴染を思い出させてきて、胸が詰まる。
「ブリジッタ。少し席を外すといいよ」
「……ありがとうございます」
娘の様子に気づいたのか、挨拶の行列が一時途絶えたこともあり、オスカーの気遣いの声がかかる。
ブリジッタは頷き、側付きのメイド一人を連れてテラスに出た。
夏の熱気がこもるそこには、誰もいなかった。
影はくっきりと落ちているのに、ぼんやりとしている自分を自覚する。
ブリジッタは、このまま消えてしまいそうな自分を、必死に繋ぎ止めた。
その祭日は盛夏――雷の季節に訪れる。
王女ブリジッタの誕生日、すなわち雷の女神が再臨した日。
その日をまたぐ数日間、王都フルメリアは大変な賑わいを見せる。
周辺国の大使が訪れる国家行事でもあり、それにつれて警備も増えるが、同時に観光客も押し寄せる。
それを当て込んだ出店が通りに溢れかえり、人の袖が当たるほど混み合っていた。
つまり普段の整然とした王都からは様変わりし、通い慣れた道さえ、溢れる熱気に紛れて見失いそうになる。
こんな日に出かけたのは間違いだったか。
クラウディア・フェルネスは、影を求めて道の端に寄りながら後悔した。
眼鏡は薄く曇り、湿気のせいだろうか、結い上げた淡い水色の髪もどことなく重く感じる。
こんな時は、汗っかき体質が恨めしい。
もう帰ろうか――クラウディアがそう思った時、不意に人混みに押された。
「危ないっ」
咄嗟に声も出ず倒れかけたところを、誰かに支えられた。
そのまま勢いに押され、横道へと抜け出す。
そこは影が濃くひんやりとしていて、人通りがない場所だった。
「大丈夫ですか? ……って、フェルネス嬢?」
お礼を言おうと振り返ったら、名前を呼ばれた。
清潔そうなシャツにズボン、そして帽子に押し込まれた黒い髪。
その姿が一瞬後、記憶に結びついた。
「え? ……あ、アルヴェイン殿?」
「こんにちは。学院の外で会うのは、はじめてですね」
優しげな面立ちが笑みに変わる。
それを向けられたクラウディアは、不意に気恥ずかしさを覚えた。
そうして、ぎこちなく自分の姿を見返す。
特に飾り気のないワンピースだが、見苦しいところはないはず。
けれど我ながら地味と思えて、いたたまれなく――。
そこまで考えて、自然と俯いていた顔を上げると、いつも通りの穏やかさがあった。
ああ、そうだ。
そんなことを気にする人ではなかった。
だからクラウディアは、今度は感謝の気持ちで頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いえいえ、お気になさらず」
外でも変わらない気さくな態度に、ようやくクラウディアは胸を撫で下ろした。
そうなると、あることが気にかかり、周りを見回してしまう。
その動きに気づいたセドリックが、ほろ苦い笑みを浮かべる。
「今日は一人です。王女殿下は公務がありますので」
「……そうでしたか」
その言葉に違和感を抱くクラウディア。
それならなおさら、王女殿下についていなければならないはず――。
「ん、もしかしてセドリックか?」
その時、横道の奥から声がかかった。
そこにいたのは、下町育ちを思わせる風体の、茶色い髪の持ち主だった。
「ヨナス? 奇遇だね」
どうやらセドリックの知人のようだった。
そして、ヨナスと呼ばれた人物は、しげしげとこちらを眺めて言った。
「デートか? 邪魔したな」
「……違います」
クラウディアは、頭痛を堪えるように、額に手を当てた。
セドリックとクラウディアは、勘違いの詫びにと、ヨナスが穴場だと言う喫茶店に誘われていた。
ひんやりとした区画で、屋外の座席にもかかわらず、影が濃く、過ごしやすい。
それが、クラウディアとしてはありがたかった。
なにより賑わう中心部から離れており、自己紹介の声も通りやすい。
「クラウディア・フェルネスと申します。よろしくお願いいたします」
「ヨナス・グランツだ。よろしくな、クラウディア」
その気さく、あるいは不躾な挨拶に、クラウディアの目が細くなる。
「せめてクラウディア嬢とお呼びください。……了承いただけますね、グランツ殿?」
「お、おう。俺もヨナスでいいぜ?」
圧に負けたのか、ヨナスの声が不自然に震える。
「それでは、ヨナス殿と」
そのやり取りに、セドリックがくすりと笑みを浮かべる。
それを見て、クラウディアはふと思いついた。
「もしよろしければ、アルヴェイン殿もそのように」
「ありがとうございます、クラウディア嬢。それでは、僕のこともセドリックと」
「はい、よろしくお願いいたします、セドリック殿」
そこでセドリックは、ヨナスに呆れ顔を向ける。
「ヨナス。少しくらいは、呼称や態度には気をつけたほうがいいよ」
「そうですね。私も一応、侯爵家の令嬢ですので」
じろり、とした視線のクラウディア。
「わ、わかったよ。今回は運がよかったってことだろ?」
「次はありませんよ」
なんとなく、いつかのブリジッタを思い出してクラウディアが宣告すると、それが通じたのかセドリックは笑みを浮かべた。
「そ、そういやよ」
焦ったのか、ヨナスは話題を変えようとした。
「どうしてセドリックは、今日は王女殿下についていないんだ?」
その質問に、セドリックは笑みのまま凍りついた。
唐突に訪れたその沈黙は、クラウディアの背中に冷や汗となって落ちる。
ヨナスは、そんなセドリックの態度に、怪訝そうにするだけだ。
やがて動き出したセドリックは、落ち着いて見える動作でお茶を口に含み、静かに告げた。
「――役職がないからだよ」
「……どういうことだ?」
ヨナスは訳がわからない様子だったが、クラウディアはそれだけで察することができた。
「僕は王女殿下の私的な執事に過ぎない。公的な役職は何もない。だから今日、ついていくことはできないのさ」
――そしてそれはきっと、今後も同じ。
ようやく飲み込めたのか、ヨナスはがしがしと、頭をかいた。
「わりぃな、なんか」
「ううん、仕方がないことだから」
穏やかな返答に、どれほどのやるせなさがこもっているのか、クラウディアにはわからない。
降りた沈黙を縫うように、時刻を知らせる鐘の音が鳴り響く。
セドリックは、そっと立ち上がった。
「もう行くのか?」
「うん。行きたいところがあってね」
「俺もついていこうか?」
ヨナスに返ってきたのは、セドリックの透き通ったような笑みだった。
「ごめん。一人がいいんだ」
「そうか。変なこと聞いた詫びだ、ここは奢る」
「ありがとう。それでは、クラウディア嬢。僕はここで失礼いたします」
「はい」
クラウディアはそれだけしか返せなかった。
セドリックは帽子をかぶると身を翻し、駆け去っていった。
それを見送ったクラウディアの目が、刺すようなものになる。
その先にいるヨナスは、気にした様子もなく肩をすくめた。
「二人になっちまったな。デートとしゃれこむか?」
「お断りします。私、配慮のない方は苦手なので」
「つれねえなあ」
その軽口に、わずかにクラウディアは胸のつかえが取れた気がした。
「それでは行こうか、ブリジッタ」
「はい、お父様」
誕生日当日、最後の公的行事。
それは王城前の広場に面したバルコニーへ出て、民へ手を振ることだった。
父にエスコートされて、その場に歩み出る。
途端、わあっ、という歓声が夏の空の下を埋め尽くす。
「おめでとうございます!」
「雷姫さま、きれい!」
「王女殿下、万歳!」
「ヴァルテリアに栄光ある未来を!」
「ブリジッタさまー!」
そんな声が、鼓膜を震わせる。
上げた手を振ると、歓声がさらに増す。
眼下の人々はみな笑顔だ。
それらを視界に入れながら、定められた通りのしぐさで顔の向きを変えていく。
そして、その視界の隅。
あらかじめ決めてあった広場の端。
人々に紛れ、何も判別できないはずのそこに、わずかな黒が見えた。
高く掲げられ、振られる帽子も。
――よかった。今年も間に合った。
それだけを胸に、大きく息を吸う。
「みな、ありがとう」
声が、広場の空気に乗る。
そのお言葉を聞き逃すまいと、広場は静まり返った。
「この日を祝ってくれたことを嬉しく思う。そして感謝を。その証として――」
感じ取る。
――いいよ、ジッタ。
――うん、セド。
ここまで伸びるその温かな魔力に、自分を預けるように。
「みなに、雷の祝福を授ける」
広場に、きらきらとした雷光が舞い落ちる。
感動のどよめきが満ち、手が伸ばされる。
触れられたそれは弾け、他の光と絡み合いながら、一層輝きを強くする。
「――みなに、平和と幸せがあらんことを」
舞い散る光と、厳かな言葉。
雷姫降誕祭は、そうやって締めくくられたのだった。
会談などの非公式の予定が重なり、ブリジッタが自室へ戻れたのは、もう遅い時間だった。
息苦しい服を部屋着に着替えると、メイドたちも下がり、やっと一人の時間が訪れる。
熱が残る夜はもう深く――日付は変わってしまった。
その事実に視線が落ちそうになる。
けれど、それはベッド脇の小さなテーブルにとどまった。
恐る恐るそこに近寄ると、包みが置かれていた。
震える手で包みを開けると、そこから手帳と栞が現れた。
手帳を開くと、最初のページに見慣れた手書き。
「誕生日おめでとう」
ブリジッタは、手にしたそれらを身体から遠ざけた。
――涙で濡れてしまわないように。
読んでくださり、ありがとうございました。
よろしければ、下の☆をぽちりと押して頂ければ、作者緋色が泣いて喜びます。
励みにもなりますので、よろしくお願いします。
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