守るということ
雷の女神フルメリアを始祖と仰ぐ信仰は国教であり、数多くの信者を擁し、各地に教会を構えている。
王都フルメリアにある大聖堂はその象徴であった。
今日は、歴史と神話、そして国教としてのフルメリア信仰を学ぶ課外授業の日だった。
クラウディアは、廊下に掲げられた絵画に見入っていた。
女神フルメリアが降臨する前からの歴史を、要所要所で切り取り、順に廊下へ配置したものだった。
それらが訴えかけてくる哲学性、筆致、構成に感銘を受け、クラウディアの歩みは自然と遅くなる。
気づけば自分の周りには誰もおらず、厳かな空気と明かりだけがあたりを包み込んでいた。
クラス単位で動いていたところまでは覚えている。
しかし、絵画鑑賞に熱中して周りが見えなくなり、どうやら置いていかれてしまったらしい。
そう思い返し、少々恥じ入るクラウディアだった。
よほど興奮していたのか、熱を持つ頬を冷ますように、少し早めに歩く。
が、絵画の訴えは強く、度々足を止められてしまう。
そうして、クラウディアは一際大きく、絢爛な額に収められたその絵に出会う。
フルメリア降臨の時。
そんなタイトルが掲げられている。
両手を掲げた女神を中心に、降り注ぐ幾本もの雷。
そして、それに手を伸ばし、または這いつくばり受け取る人々。
力強い筆致、豊かな色彩、描かれてから積み重ねてきた時間。
そのすべてが、神々しさの象徴のようだった。
――なのに、なんの感銘も受けなかった。
これまでとは違い、ただただ感じる空虚さに、クラウディアは戸惑った。
それだけではなく、なぜか胸が締めつけられるようだった。
見ているのが辛くなり、クラウディアは顔を逸らした。
だが足を踏み出しかけたところで、あることに気づき、もう一度その絵を見た。
中央に位置するフルメリアは、女性の面影だけを残し、細部はぼやかされている。
そして、それを取り囲む雷の線。
だからだろうか。
たった一人で孤独を叫び、檻に囚われているように、クラウディアには見えた。
あまりに不敬なその考えを振り切り、廊下を進む。
――そうして、その会話は聞こえてきた。
「王女殿下。どうか、俗世の肩書きにお苦しみにならないでくださいませ」
「……どういうこと」
セドリックは、そのやり取りをどこか警戒して見ていた。
教師コレット・ネーベックは、見ていられないと言わんばかりの表情だった。
ブリジッタの声は、怪訝の中にも冷えを孕んでいた。
その声に、コレットは覚悟を決めたように背後を振り仰ぐ。
そこには、始祖フルメリアを象った石像があった。
目を閉じたその女性像は、慈悲深い柔和な笑みにも、今にも神罰を下しそうな冷徹な無表情にも見える。
丸い天窓から金色を帯びた夕方の光が差し込み、その神秘をさらに強調していた。
「あなた様を心配してのことでございます。一生徒、王女、雷姫、そして――女神。ご負担ではないか、と存じまして」
ブリジッタは、口を開いて閉じ、そしてもう一度開いた。
「……配慮には感謝します」
きっと「余計なお世話」とでも言おうとして言い直したのだろう、とセドリックには予想がついた。
それと同時に、こんなことを言い出した担任の内心を測りかねてもいた。
ブリジッタとセドリックの態度をどう取ったのか、なおもコレットは言い募る。
「わたくしがお伝えしたいのは、ただ一つ。あなた様は数ある立場のいずれよりも先に――天雷の君である、とだけご認識いただきたく」
「私は」
その言葉は、コレットの語尾に重ねられた。
そうして、フルメリア像に投げかけた視線を――薙ぐように、コレットへと引き戻す。
「……一生徒の立場を投げ出すつもりはない。――王女の立場も」
「ご立派でございます。しかしそれは、あまりにも王女殿下がお可哀想で――」
「コレット先生」
セドリックは、冷ややかな心境で言葉を差し挟んだ。
コレットの目が、セドリックを鋭く射る。
セドリックには、なぜそのような目を向けられるのかわからない。
けれどこれ以上は見過ごせず、セドリックは、表面上は落ち着いて告げた。
「それ以上は、どうか。どうしても、ということであれば――報告せざるを得なくなります」
一歩間違えば、それは制度への批判、ひいては女王陛下に弓引くことに他ならない。
その含意が伝わったのか、コレットの表情が強張る。
抑えつけられた感情は、一層鋭い刃となってセドリックへ向かい――小さな身体に遮られた。
「セドリックが――何?」
割り込んだのはブリジッタだった。
その低い声に、コレットは何を感じ取ったのか。
態度を改めると、深々と頭を垂れ、一歩退いた。
「……失礼いたしました」
コレットは礼儀を守って廊下へ消えようとした。
だが、すれ違った人影に驚き、一礼する。
そのまま、おそらく別の生徒たちのもとへ戻ったようだった。
代わりに現れたのは、神妙な雰囲気のクラウディアだった。
それを見たブリジッタが、緊張を解いてのんきな声を上げた。
「迷子発見」
「……お恥ずかしいところを」
なにやら微笑ましいものを見るようなセドリックが視界に入り、羞恥に拍車がかかるクラウディア。
「こ、これがフルメリア様なのですね」
クラウディアのごまかしに乗ることにして、ブリジッタとセドリックは目配せを交わしたのだった。
――ごまかせただろうか。
クラウディアは、鉛を飲み込んだような心境で、女子寮へと続く廊下を歩いていた。
少し先には王女殿下がいて、周りには同じく自分の部屋へ戻る生徒たちがいる。
何気ない日常風景なのに、こんなことを考えている自分が酷く浮いているように感じられる。
意図せず立ち聞きしてしまった、ブリジッタとセドリック、そしてコレットとのやり取り。
問題は、その内容だけではなかった。
コレットが二人の前から立ち去る際、発した言葉。
それが、すれ違ったクラウディアの耳に入ってしまったのだ。
「――生活魔法使いの癖に」
その呪詛のような言葉を、伝えるべきだろうか、と悩む。
また何かを動かそうとしているのではないか。
これは、その前兆ではないか。
警告すべきではないか――とも思う。
ただ、確証はない。
王女殿下に続いて、割り当てられた部屋へ入る。
この順番にも、もう慣れた。
最初は王女殿下に扉を開けさせるなど恐れ多く、かしこまったものだった。
「私は一生徒だから」
噛みしめるかのようなその言葉を、なんとか受け止めて、あまり気にしないようにしている。
「王女殿下、私は少し調べものを」
「クラウディアは勉強熱心」
わかった、という意味合いの頷きと、感心の視線が届いてくる。
机に向かって準備していると、視界の隅の王女殿下はきちんと椅子に座って読書を始めるようだった。
本に挟まっている栞を、そっと撫でる姿も見慣れたものである。
そしてその栞が誰から贈られたものかを、クラウディアは聞いていた。
彼がついているなら大丈夫、そう思いながら机に向かう。
調べものとは言ったが、実際には考えごとだった。
机に向かってペンを持つと考えが捗るのは、昔からのクラウディアの習慣でもあった。
先ほども考えた、確証はない、という結論。
だからそれを、他に考えることも多いブリジッタとセドリック本人に伝えるには負担となりすぎる。
ならば、確証に引き上げる必要がある。
それには証拠が不可欠。
しかし所詮、自分は一生徒で証拠集めなど素人同然。
それに、深入りすれば証拠を隠されかねない。
だから禁物だと、以前にも自分を戒めたばかりだ。
しかも、王女殿下に近い自分は、すでにその動きを警戒されている可能性もある。
誰が味方かもわからない状況では、迂闊に誰にも相談できない――。
「――お兄様に」
ふと思いついたことが口から漏れてしまい、聞かれてしまったか、と王女殿下の様子を窺う。
けれど彼女は、栞を手に読書を続けたままだった。
安堵のため息をつき、その手段について考える。
侯爵である父のそばで、すでに辣腕を振るっている兄。
その兄に助力を頼めないだろうか、とクラウディアは考えた。
兄は計算高い人物だった。
よほど自分に利があると認めなければ、実の妹である自分の頼みでも引き受けはしない。
しかし、ことがもし、学院制度の不正に至っているならば、そこに利を見出す可能性はある。
そうと決まれば、とクラウディアは手紙をしたため始めた。
きっかけとなった合同魔法演習のペア決め。
そして不自然な時期に出された寮への転居通知。
そこに不審な点はないか。
可能性に過ぎないけれど――フェルネス家の利となるかもしれない。
そんな推測混じりの文章。
およそ自分が得意な調査に基づく結果ではない、嘆願というべき文面。
誰かの目に触れた時のことも考え、文面は変哲のない時節の挨拶にした。
その中に、昔、兄妹で遊び半分に考え出した符丁を使い、不審点を潜り込ませる。
まさかこんな役に立つとは、と思いながらクラウディアはペンを走らせた。
ようやく書き終えたそれを見返し、苦笑する。
最後は兄妹の情に訴えかけるため、「親愛なるお兄様」など、普段つけもしない美辞麗句まで取り入れた。
いつもなら文章は一晩寝かせて読み返すのだが、今はその時間すら惜しい。
伝えたいことが符丁で隠れていることだけを確認し、蝋で封をする。
そうして、蝋が乾く時間さえもどかしく立ち上がると、ブリジッタと目が合った。
「……夕食の時間?」
その呟きに、クラウディアもそんな時間になっていたのだと気づく。
ブリジッタは、クラウディアの手の中を見た。
「手紙を出すついでに、夕食に行く?」
「……そうですね」
気が急いていたのだろう。
何もかも忘れていたクラウディアは、何気ないブリジッタの問いかけに、心が落ち着いていくのを感じた。
ブリジッタは、本に栞を挟んで立ち上がった。
「じゃあ、行こう」
「はい」
何気ないやり取り。
いつしか、その普通を尊く思うようになった。
それをなんとしても守るために。
クラウディアは、手紙を持つ手に力を込めた。
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