その関係の名前
「結局、失敗だったではありませんか……!」
「……計算違いがあったことは認めましょう」
頬に怒りの朱をのぼらせる女。
苛立ちを噛み殺す男。
二人は暗がりの中にいた。
「だが、まだ機会はある」
「次の演習のことですか? しかし、これ以上、ごまかしきれるとは」
「だからこそ、手に入れた時の成果は大きい」
「確かに、あのような光景を、二度と晒してはなりません。神は誰の手にも収まるものではない……!」
「ごもっとも。次は確実にエスコートして差し上げますゆえ――」
その言葉を最後に、暗がりの会話は途切れた。
「おやすみ、クラウディア」
「はい、おやすみなさいませ、王女殿下」
王女殿下がベッドに入ると、ちゃんと眠りについたか確認するのがクラウディアの日課になりつつある。
不眠の時期もあったから、少々心配になってのことだ。
けれど、セドリックとの時間を持てたことと、演習での疲れもあってだろうか、すぐに寝息が聞こえてくる。
そこに苦しさを感じ取れず、クラウディアは一安心できた。
壁を向いて眠っていることを確認し、クラウディアは自分の机に向かい、小さな灯りをつけた。
部屋の灯りはすでに消されているから、見えるのはその狭い空間だけ。
そこに逃げ込んでいるようだ、とクラウディアは自嘲する。
そうして、手紙にペンを走らせる。
内容はブリジッタのこと。
忘れてはいけない、自分は監視役だ。
委ねられた役目に従い、今日のこと、そして前日までの様子を書き連ねていく。
客観的視点を保ち、具体的に列挙し、ただただ作業的に。
そう、それは文官志望の自分にお似合いな、無機質な作業のはず。
なのに、手紙にはインクではなく涙が落ちた。
まただ、とクラウディアは冷静に身を引き、眼鏡を外して涙を拭う。
それ以上はため息に変えて、けれど視線はどうしてもベッドのルームメイトに向いてしまう。
安らかで静かな姿。
おそらくは――自分を信頼してくれているであろう、その姿。
クラウディアは、それをただの監視対象として見ようとしても、もう無理だと知っていた。
昼休みの食堂。
クラウディアはそこに向かう廊下で、後ろから声をかけられた。
「よう、クラウディア嬢」
「ヨナス殿」
気さくに陽気に声をかけてきたのは、別クラスなのに何かと縁があるヨナス・グランツだった。
「今日もお一人ですか?」
「そんな悲しくなること言うなよ」
言葉とは裏腹に、楽しそうな笑みを浮かべるヨナスだった。
そんなヨナスを、別にクラウディアは嫌っていない。
「今日もセドリックとお姫様の仲を邪魔しに行くのか?」
配慮がないところに呆れるだけだ。
黙ってしまったクラウディアをどう思ったのか、ヨナスは人好きのする笑みでついてくる。
クラウディアは今日も、色とりどりの料理に心を弾ませながら取り分ける。
振り返ると、隅のテーブルに着いている王女殿下とその執事が視界に入った。
そこで、恐れ多くも王女殿下の手が軽く上がる。
当たり前に自分をテーブルに誘ってくれることに、恐縮するとともに嬉しさも感じる。
いそいそとそこに近づいてしまう自分に、クラウディアはまだ慣れそうもない。
テーブルに着いて、料理を載せたトレーを置くと、同じようにヨナスも自分の分を置いた。
遠慮なく席に着くヨナスと、少し遠慮がちなクラウディア。
その対比に、セドリックの口元がほころんだ。
最近は、この四人でテーブルを囲むのは珍しくなくなっていた。
合同魔法演習以降、王女殿下と執事に対する風当たり――あるいは噂は、沈静化したように見えた。
耳にする囁きの内容が変化したことからも、クラウディアはそう感じていた。
「なんだか素敵でしたわね、あのお二方」
そんな好意的な見方が増えた。
もちろん、まだまだその関係性を不敬、不釣り合いだと捉える向きはある。
が、その割合はずいぶんと減っているのではないか――というのが、クラウディアの抱く印象だった。
それまでは、ブリジッタとクラウディア、セドリックとヨナス、というばらばらの組み合わせの食事風景だった。
演習後の空気の変化を敏感に感じ取り、もう大丈夫だと思ったのか、王女殿下は明快に動いた。
「一緒に食べよう、セドリック」
そう言って、セドリックのテーブルに近寄ってきたのが始まりだった。
セドリックはそれを苦笑で迎え入れ、食卓は以前のようなブリジッタとセドリックのものへ戻った。
そしてそこに、クラウディアとヨナスが参加する形となったのだ。
だからだろうか、最近のクラウディアは、食堂の食事を美味しく感じられている。
王女殿下のトレーに野菜が足りているか、気にかける余裕もできた。
同じ心境のセドリックと、困ったような笑みも交わせる。
「肉をたくさん食べるくらい、いいと思うけどなあ」
「ヨナスの言う通り」
「ヨナス、王女殿下を甘やかさないでもらえるかな」
「そうです、健康を損なわせるおつもりですか」
そんな会話も手伝って、食事が進む。
やがてブリジッタとセドリックは先に食事を終えて、席を立った。
「日直の仕事があるから」
セドリックとの日直を口にするブリジッタの雰囲気は、どこか柔らかい。
クラウディアはそれを微笑ましく思いながら、食堂を出ていく二人を見送った。
喋り足りないのか、ヨナスは不満そうだった。
「セドリックを次の演習に誘い損ねたぜ。あー、全部セドリックを選べたらなあ」
「王女殿下に怒られますよ」
「そりゃ怖すぎる話だ」
ヨナスは、残念、と肩をすくめた。
そして彼の態度が、ふと改まる。
「しかし、噂もあてにならねえな」
「……噂?」
「そう。王女殿下と執事の、よからぬ噂。……そんな顔すんなよ、信じてるわけじゃねえ」
「……失礼いたしました。……その、当てにならない、というのは?」
「身分違いの恋なんてもんじゃ収まりそうにねえ、ってこと。なんつーか……」
ヨナスは言うべきか迷って、クラウディアの無言の催促を受けて、その先を続けた。
「ほっとけねえ。……うまく言えねえが」
感情を言葉にし損ねて、難しい顔になったヨナス。
クラウディアは言葉を失った。
言うべきではなかったと察したのか、ヨナスは申し訳なさそうに頭をかいた。
「悪い、変なことを言っちまったみたいだ」
「……いえ。配慮がないのは知っていますので」
「ひでえな。いや、ちっとは俺が改めるべきかあ」
少しは冗談混じりに返せただろうか。
そう顧みることもできないクラウディアを置いて、ヨナスは手を上げる挨拶で去っていった。
放っておけない。
それはつまり。
放っておくべきではない、ということではないだろうか。
クラウディアは、その事実をしばらく飲み込めず、佇むしかなかった。
クラウディアが寮の自室に戻ると、ブリジッタの姿があった。
ベッドに腰掛けて、一心不乱に編み棒と毛糸を相手に格闘している。
「戻りました」
「おかえり」
その言葉に、くすぐったさを感じる。
ブリジッタの指先や視線は、仕上がりつつある編み物に向いたまま。
前に一度、視線を外した途端、どこから再開すればいいかわからなくなったことがある。
その時は、すべてをほどくしかなかった。
そう、ブリジッタは意外と――と言っては怒られてしまうかもしれないが――不器用だった。
だから編み物もお茶の淹れ方も、あまり上達しているようには見えない。
けれど一生懸命に向き合い、手を抜くことも怠けることもしない。
それが誰へ向けての努力か、もうクラウディアは知っている。
この小さな王女殿下が、どんな人物なのか。
――クラウディアは、もう知ってしまっていた。
「……紅茶を淹れますね」
そう言うと、ブリジッタは姿勢を変えないまま、手を止めた。
「私がしたい」
「申し訳ありません、早く温まりたいので」
「残念」
まだまだ冬が去る気配はなく、廊下も寒かった。
もう待ちきれない、というクラウディアの言葉に気を悪くすることもなく、ブリジッタはまた編み物に戻る。
紅茶を淹れる練習の機会を奪ったことを申し訳なく思いつつ、クラウディアは壁際の茶器で準備を始める。
冷たい風が、時折窓を叩く音。
踊りだすケトルの蓋。
編み棒と毛糸を放り出して、諦めてベッドに寝転んだブリジッタのため息。
いつしか日常となった音が、クラウディアの内心を落ち着けていく。
「……難しい」
「一日にしてならず、ですね」
拗ねたようなルームメイトに、知らず笑みが零れる。
テーブルにお茶の用意を整えていくと、ブリジッタが立ち上がって近くの棚を開けた。
そこからお茶菓子が取り出され、ブリジッタがテーブルに並べていく。
「ありがとうございます、王女殿下」
「クラウディアも、ありがとう」
お互いに机の椅子を持ち寄り、テーブルを挟んで向き合う。
これがいつものブリジッタとクラウディアのお茶の形だった。
ティーカップに口をつけると、ブリジッタの表情にわずかな感心の色が浮かぶ。
「美味しい」
「お褒めいただき、光栄です」
クラウディアは、素直な褒め言葉に嬉しくなった。
ブリジッタは嘘やごまかしを好まない。
「……セドリック殿と比べて、いかがでしょうか」
ブリジッタの雰囲気は、虚を突かれたものから、徐々に困ったものへと変わっていく。
クラウディアは、そんなブリジッタから察する。
やはりセドリックが淹れた紅茶の方が美味しく感じられる。
だが、それをはっきり言うのは躊躇われる。
そう見て取れた。
だからクラウディアは、一足先に頭を下げる。
「申し訳ありません。意地悪な聞き方をしてしまいました」
「……ううん」
また困惑の雰囲気へと変わっていったようだった。
ブリジッタはあまり表情を変えない。
それが王女教育のたまものなのか、生来のものなのかはわからない。
けれど、感情は伝わってくる。
それだけ多く見てきたからか、接する機会が増えてきたからか。
そうして深く知っていったからこそ、曖昧にしたままではいけないと思うのだ。
「……お二人の、それは」
言えば、今度こそ機嫌を損ねるかもしれない。
それは雷となって現れるかもしれない。
なにより、もうこれまでのような態度では接してもらえないかもしれない。
けれどこれ以上、不誠実に口を噤んではいられなかった。
「……それは、依存――では、ないでしょうか」
「――うん」
覚悟を決めて言ったにもかかわらず、返ってきたのはあっさりとしたものだった。
半ば呆然としたままクラウディアが顔を上げる。
その先で、ブリジッタはティーカップを口元に運んでいた。
その動作に乱れはなく、すなわち何も感じていないように見える。
カップをソーサーに戻す音が、やけに大きく聞こえた。
「知ってる、クラウディア。――もう、ずっと前から」
ああ、そうか、とクラウディアは思う。
こんなにも近い二人だ、誰かが指摘するに決まっている。
それに思い至らず、自分がしなくては、などと。
なんて差し出がましく、傲慢だったのか。
恥ずかしさに縮こまってしまいそうになる。
「でも、ありがとう、クラウディア。教えてくれて」
クラウディアの前に、手の甲が差し出された。
「これからも、色々と教えてほしい」
クラウディアは思う。
依存の一言で二人を否定してしまったような自分が、その手を取ってよいのか、と。
けれど気づく。
ブリジッタの手は微かに震え、瞳は揺れていた。
そして、静かに閉じられる目。
引かれかけた手を追いかけ、クラウディアは両手でしがみついた。
ブリジッタの目が見開かれる。
クラウディアは、その瞳に真っ向から、自分の思いを注ぎ込んだ。
「お野菜をちゃんと食べていただけるのでしたらっ」
言った内容、跳ねた語尾。
それらに羞恥を刺激されながら、なおもクラウディアは言い募る。
「お教えしたいと存じますっ。――お、お二人のおそばで」
そういう形の二人なのだ。
放っておけないというなら、放っておかない。
そうすればいいだけ、とクラウディアは思う。
小さな笑みが、ブリジッタの唇を彩った。
「うん、がんばる」
クラウディアは思う。
一生、この笑みを忘れることはないだろう、と。
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