灰の微睡み、遺された「銀の鍵」
フェルゼンの北門を命からがら脱出してから、丸一日。
降り続いていた雨は上がり、雲の隙間から差し込む朝日は、二人の少年が歩んできた苦難を祝福するように輝いていた。
「……見えた。ユーマ、ルミナ村だ……! 帰ってきたんだな、俺たち……!」
カイルの声は歓喜に震えていた。ボロボロになった革鎧、刃こぼれした戦斧、そして泥にまみれた身体。それでも、懐に抱いた瑠璃色のアンプルだけは、一点の曇りもなく輝いている。
隣を歩くユーマは、MP枯渇による後遺症で未だ言葉を発することができない。しかし、その瞳には「間に合った」という確かな安堵が宿っていた。
だが、いつもなら朝の農作業で活気にあふれているはずの村が、不自然に静まり返っている。
ユーマの「知力28」が、MPが空のまま無理やり再起動した。視覚情報の解析——村人の姿が見えない。家々の窓は閉ざされ、空気には「死」の予感に似た、重苦しい静寂が張り付いている。
「……おい、なんだよ。みんな、どうしちまったんだ?」
カイルは不安を振り払うように、おばあちゃんの家へと駆け出した。ユーマもまた、嫌な予感に心臓を鷲掴みにされながら、もつれる足でその後を追う。
おばあちゃんの家の扉は、半開きになっていた。
中に入ると、そこには村の医者と、数人の村人たちが沈痛な面持ちで立っていた。
「……カイル、ユーマ。……帰ってきたのか」
医者の声は重く、そして絶望に満ちていた。
ベッドの上には、一週間前よりもさらに小さく、枯れ木のようになったおばあちゃんが横たわっていた。呼吸は浅く、今にも消え入りそうな命の灯火。
「おばあちゃん! ほら、持ってきたよ! フェルゼンまで行って、本物の『聖灰の雫』を手に入れたんだ! これを飲めば、また元通り元気になるから!」
カイルは震える手でアンプルの封を切り、おばあちゃんの青白い唇に、その奇跡の液体を注ぎ込んだ。
瑠璃色の光が喉を通り、全身の血管へと行き渡る。だが、知力28を持つユーマの魔眼は、信じがたい光景を捉えていた。
おばあちゃんの体内に浸透したはずの「奇跡の魔力」が、彼女の胸の奥にある「虚無の穴」へと吸い込まれ、霧散していくのだ。
「……効かない? なんでだよ! 本物なんだぞ! エルザがくれた、最高級の薬なんだぞ!!」
カイルが叫び、おばあちゃんの身体を揺さぶる。
その時、絶命したかと思われていたおばあちゃんの手が、ゆっくりと動いた。彼女は、カイルではなく、隣で立ち尽くすユーマを……その「知力28」を宿した瞳を、強く見つめ返した。
「……ユーマ……。……カイル……。……遅かったわね。でも……それでいいのよ……」
おばあちゃんの声には、病人の弱々しさは微塵もなかった。代わりに、古の賢者が語るような、深みと透明感を帯びた響きが宿っていた。彼女の瞳の中で、かつて見たことのない「幾何学模様の紋章」が淡く発光する。
「……おばあちゃん? その目……。……解析……できない……!?」
ユーマの知力28が、激しく火花を散らす。目の前の存在が、自分たちが知る「おばあちゃん」という情報の枠を超えて、別の「何か」に上書きされていく。
「ユーマ、……あなたのその瞳、その『演算の力』は、私が……あなたに……託した……呪いよ……」
「……えっ……?」
おばあちゃんは、苦悶の表情を浮かべるカイルの頬を撫で、最後にユーマの耳元で、村の伝承にも、フェルゼンの禁書にも記されていない、不気味な言葉を囁いた。
「……世界は、……七層の『虚偽』で編まれている。……フェルゼンは、その第一の結び目に過ぎない。……薬が効かないのではない。……この身体は、……もうとっくに『この世界の論理』から、……切り離されているのよ……」
おばあちゃんの肌が、ひび割れた陶器のように白く輝き始める。
「……行きなさい、ユーマ。……その知力で、……私たちが隠し、神が封じた『真実の座標』を見つけ出しなさい。……エルザが持っていた『栞』は……地図の、……欠片……」
「おばあちゃん!! 待ってくれ、行かないでくれ!!」
カイルの叫びも虚しく、おばあちゃんの身体は、血の通った肉体であることをやめ、数多の「銀色の砂」へと姿を変えた。
ベッドの上には、一粒の灰も残っていない。ただ、彼女が最後に握りしめていた一冊の古い「日記帳」と、そこに挟まれた「もう一枚の銀の栞」だけが、虚しく残された。
日記帳の表紙には、ユーマの知力でさえ読み取ることのできない、極めて高度な暗号化魔法が施されていた。
数時間後。
村人は誰一人として、おばあちゃんが消えたことに気づいていなかった。彼らの記憶の中では、おばあちゃんは「ずっと昔に亡くなった」ことになっているのだ。
「……ユーマ。……これ、何なんだよ。俺たちが守ってきたおばあちゃんは、……一体誰だったんだ……?」
カイルは、おばあちゃんが消えた後の冷たいベッドを見つめ、拳を血が滲むほど握りしめていた。
ユーマは言葉を発しなかった。いや、発せられなかった。
(……おばあちゃんの遺した言葉、七つの虚偽。……フェルゼンさえも、氷山の一角でしかない。……僕にこの力を与えたのがおばあちゃんだとしたら……この世界そのものが、壮大な『計算違い』の上に成り立っているということか……?)
ユーマの瞳の中で、知力28の数値が、さらに一歩「狂気」に近い領域へと変動する。
【知力 28 ⇒ 29(覚醒中)】
おばあちゃんの死は、終わりではなかった。
それは、世界という名の巨大な監獄から、その「鍵」を盗み出すための、長い旅の始まりに過ぎなかったのだ。
「……行こう、カイル。……おばあちゃんが何を隠したのか、……この世界が何を隠しているのか。……僕の演算で、全部暴いてやる」
二人は、もはや帰る場所のなくなった村を後にし、夕闇に染まる地平線を見据えた。
次の目的地は、フェルゼンのさらに奥、世界の「心臓」があると囁かれる聖都。




