調律の序曲 ―― 聖都への巡礼と狂った数式
ルミナ村を後にした二人の背後で、かつての平穏は銀の砂となって風に消えた。
目指すは、大陸の最深部に位置する聖都「エリュシオン」。そこは、この世界の法を司る「聖典」が安置され、おばあちゃんが遺した「七層の虚偽」の正体を解き明かすための唯一の手がかりがある場所。
二人が歩む街道は、もはやかつてののどかな旅路ではなかった。
フェルゼンを抜けて三日。街道沿いの森で、二人は異様な光景に遭遇する。
空中に浮かぶ川、上下が逆さまに生えた樹木。そして、それら「理」の壊れた空間から、泥のような魔力が溢れ出していた。
「……なんだよ、ありゃあ……。魔物じゃねえ、バケモンですらねえぞ」
カイルが戦斧「黒鉄」を構える。その視線の先には、身体が立方体の集合体のように歪み、不規則に明滅する狼のような影――「境界の侵食体」が数体、音もなく佇んでいた。
ユーマの「知力29」が、激しい計算音と共にその存在をスキャンする。
(……おかしい。熱源なし。質量不定。……これは生命体じゃない。世界という『システム』が吐き出した、処理しきれないゴミ(ジャンク)だ!)
「カイル、普通の攻撃は効かない! 奴らの『存在確率』が揺らいでいる瞬間に、一点を叩くしかない!」
ユーマの瞳が蒼く発光する。今の彼には、世界の「ひび割れ」が視覚情報として流れ込んでいた。
侵食体が、空間を無視した超高速移動で肉薄する。
カイルの剛腕でも、存在そのものが不安定な敵には空を切るばかりだ。しかし、ユーマの指先が虚空で「数式」をなぞる。
「……右、座標(4,2,-8)。0.2秒後に実体化する。……そこを全力で叩けッ!!」
カイルが迷いなく斧を振り下ろす。ユーマの魔力が斧の刃先をコーティングし、侵食体の「バグ」を無理やり固定した。
ズガァァァン!!
物理的な衝撃波ではなく、ガラスが砕けるような高周波の音が響き、侵食体は四散して消えた。
「……ふぅ。ユーマ、お前……。村を出てから、どんどん『人間』じゃなくなってねえか?」
カイルが不安そうにユーマを見つめる。ユーマの鼻からは、また一筋の血が流れていた。
焚き火を囲む夜、ユーマはおばあちゃんが遺した「二枚目の銀の栞」を取り出した。エルザから譲り受けた一枚と並べると、二つの栞は磁石のように引き合い、空中に淡い光の地図を投影した。
「……やっぱりだ。この二枚は、ただの栞じゃない。聖都エリュシオンにある『大図書館』の封印を解くための、論理回路の一部だ」
ユーマは、おばあちゃんが遺した「封印された日記帳」を撫でる。
知力29をもってしても、その表紙の暗号は解除できない。解除に必要なのは、さらなる「知力の向上」、あるいは「世界そのものの真実を理解すること」だった。
「カイル、僕たちはこれから、世界の『心臓』へ行く。……でも、そこはきっと、フェルゼンよりもずっと残酷な場所だ」
「……当たり前だろ。おばあちゃんがあんな消え方したんだ。地獄の果てだろうと、俺が道を作ってやる」
闇の中から、二人の会話を盗み聞きする複数の気配があった。
それはベリウスの部下のような三流の賞金稼ぎではない。全身を純白の法衣で包み、仮面を被った集団――「聖都教団・異端審問官」。
「……見つけたぞ。『遺された鍵』を持つ器の片割れを」
「……排除するか?」
「いや、奴をエリュシオンまで生かして運べ。……おばあ様が待ち侘びているのだからな」
彼らの手には、ユーマたちの持つものと酷似した「三枚目の銀の栞」が握られていた。「……カイル、後ろに隠れて。……『客人』が来たみたいだ」
ユーマが立ち上がる。その指先には、もはや魔力操作を超えた「空間の歪み」が集中していた。
聖都への道。そこは、人間が神から与えられた「嘘の平穏」を剥ぎ取られていく、過酷な巡礼の始まりでした。




