代償の秤、差配人の微笑み
フェルゼンの地下、黒鼠の胃袋。
オークションの開始を告げる鐘の音が、重苦しく地下水道に反響している。タイムリミットまで残り、わずか五分。
鉄扉を蹴破るようにして飛び込んだのは、もはや人間というよりは泥と血の塊のような二人だった。カイルは荒い呼吸と共に、銀の布で幾重にも包まれた「重い塊」を、ベリウスの机の上に叩きつけた。
「……ハァ、ハァ……持ってきたぞ……。約束の、魔導書だ。……さあ、薬を……おばあちゃんの薬を渡せッ!!」
カイルの声は掠れ、立っているのも奇跡に近い状態だった。隣では、ユーマがカイルの肩に縋り付き、焦点の合わない瞳でベリウスを凝視している。
ベリウスは、騒がしく入ってきた二人を眉一つ動かさずに見つめていた。彼は優雅に立ち上がり、手袋を嵌めた手で机の上の包みに触れる。
「……期限の五分前か。正直に言えば、君たちの死体すら戻ってこない方に賭けていたのだがね」
彼は慎重に布の端をめくり、中を確認する。瞬間、部屋の温度が数度下がり、魔導ランプが激しく明滅した。魔導書の放つ「深淵」の気配が、防魔の施された執務室ですら処理しきれないほどに溢れ出す。
「……紛れもなく本物だ。保存状態も、これ以上なく最悪で……素晴らしい。この『汚染』こそが、市場で最高の価値を生む」
ベリウスは満足げに頷くと、引き出しから小さな、透き通るような青い液体の入った瓶を取り出した。
「約束だ。これが『聖灰の雫』。おばあさんの余命を繋ぐ、奇跡の霊薬だよ」
カイルが、渇望するようにその瓶へ手を伸ばそうとしたその時。
意識の混濁していたユーマが、震える声で遮った。
「……待って、カイル。……触っちゃ、だめだ……」
「ユーマ? 何言ってんだよ、これがなきゃ、おばあちゃんは……!」
「……おかしいんだ。……知力28が……まだ、警告を止めてくれない……」
ユーマは血走った眼で、ベリウスと薬の瓶を交互に見た。MPはマイナス。精神は崩壊の危機にある。だが、極限状態の知力は、現実の風景を「構造」として捉えていた。
「……ベリウスさん。……その瓶。ラベルの裏に、微かな魔力のサインが見える。……それは『保存魔法』じゃない。……『追跡』の魔法だ。……違いますか?」
ベリウスの微笑みが、わずかに深まった。
「……ほう。その状態でまだ視えているのか。……驚異的だな」
「追跡魔法……? なんで、そんなもんが薬に……」
カイルの問いに、ユーマが絶望的な答えを出す。
「……最初から……僕たちに薬を渡して、村に帰すつもりなんて、なかったんだ。……この薬を持って村に帰れば、君の部下たちが、僕たちごと『魔導書を奪った強盗』として処刑し……薬も、そして僕たちが隠している『銀の栞』の出処も、全部回収するつもりだった……」
ベリウスは、ゆっくりと拍手を送った。
「その通りだ。君たちの価値は、魔導書を運ぶ『使い捨ての馬」』としてだけではない。その若さでこれほどの技術を持つ君たちは、生かして返しては他所のギルドの利益になる。……ここで私の飼い犬になるか、あるいは薬を持って外へ出た瞬間に死ぬか。……選ばせてあげようと思ってね」
「……ふざけんなッ!!」
カイルが戦斧を構えようとするが、足に力が入らず、その場に膝をついてしまう。
ユーマは、カイルの耳元で囁いた。
「……カイル。……僕の、最後の魔力を……全部、君の斧に流す。……薬を奪って、……街の外まで……走れるか?」
「……お前はどうすんだよ、ユーマ!」
「……僕は、ここで『魔導書』を暴走させる。……奴らが追ってこれないように」
それは、ユーマの自爆を意味していた。
知力28が算出した、唯一「おばあちゃんが助かる」確率。それは、カイル一人が薬を持って村へ逃げ延びるルートだけだった。
「……嫌だ。……二人で帰るんだ。……お前がいない村なんて……おばあちゃんだって喜ばねえよ!」
カイルの目から、大粒の涙が溢れ、床に溜まった泥水と混ざり合う。
その時、ベリウスの背後のカーテンが揺れた。
「……あら、随分と安っぽく見積もられたものね。私の『栞』を預けた少年たちが」
部屋の隅に、あの宿場町で栞を残していった謎の「銀髪の少女」が、音もなく姿を現した。
「……君は、あの時の……」
ユーマが薄れゆく意識の中で、少女を見上げる。
少女はベリウスを一瞥し、冷たく言い放った。
「ベリウス、この子たちは私の『投資先』よ。あなたの汚い手で、勝手に精算しないでくれる?」




